これまで2回にわたり、コカコーラ鈴鹿8時間耐久オートバイレースの初期を振り返ってきた。我々団塊の世代がこの8耐に出会ったのは、30歳前後だ。それだけにこの8耐には少し遅いが、青春の思い出とオーバーラップするところが多い。この話をする前に少し時代を戻してみる。
我々が中学生の頃は、3年生になるといつ免許の取れる16歳になるかが話題になり、高校ではクラスでもかなりの男子が二輪車の運転免許証を取得した。それほどバイクに乗るのは自然だった。CR110やCB72、トーハツのLD3など当時若者の誰もが憧れたスポーツバイクが各社から発売された頃だ。新車の記事やバイクレースの情報は、今とは異なり情報の伝達は遅くバイクの月刊誌から得る以外なかった。それだけに毎月、雑誌の発売を、首を長くして待っていたのを覚えている。
当時バイクの楽しみ方はツーリングが主体で、レースの存在はともかくあえて見に行こうとは思わなかった。レースをするのはごく一部の人間で、それは浅間のレースに代表されるダートでの競争やスクランブルレースが主だった。走る楽しさをバイクに求め、年に数度の販売店やクラス仲間とのツーリングが当時最大の楽しみで、人の走りを見て楽しむという遊びはまだ普及していなかった。まして興行としてのレースとなるとなおさらだ。
料金を払ってレースを観ることがわくわくする遊びとなったのは、1961年鈴鹿サーキットが完成してからだろう。鈴鹿は日本で初めて年間を通して定期的に二輪、四輪のレースを開催するようになった。現に私も高校生の時、兄と二人で四輪の日本グランプリを観るために鈴鹿まででかけたことがある。これが私のレースとの関わりの始まりであり、またフォトグラファーとしても原点だった。今ではサッカーで弾丸ツアーなるものがあるが、それに近い当時としては強行なスケジュールといえよう。
土曜日の夜10時東京発の東海道線大垣行きに乗り、朝5時名古屋着。この時ホームで食べた"きしめん"の味は今でも忘れられない。その後近鉄に乗り換えるが、これまた各駅停車。白子からボンネット型バスでサーキットに向うが、周りは田んぼ田んぼで舗装されていない地道。
ところがサーキットに着いてみると、そこにはこれまで見た事のないすばらしい景色。大きなスタンドに舗装された幅の広いコース。その日、軽四輪のレースなどいくつかのレースの後、GPのメーンレースはスカイラインとポルシェ904の戦い。当然興奮しないはずはない。ここまで来てよかったと兄と話したのを今でも覚えている。帰路は東京駅朝5時着でそのまま帰宅。着替えて何事もなかったように学校に出かけた。足は当時愛用していたCB72タイプ1でした。
と長々と昔の話をしてしまったが、誰にもいろいろな思いでがあるでしょう。それがレースだとしたらその原点はどこにありますか。
私はその時鈴鹿で撮影した写真に満足出来ず、その後写真の道に入っていった。78年にはすでに雑誌にレース写真を掲載し、何度となく鈴鹿にも出かけていたが、これぞ金を払ってでも観たいレースだと、8耐の第一回大会には強い思い入れがあったのは事実だ。その後10年15年と時が過ぎ、94年で私の8耐は終わった。
その後は、私が経験した事をより多くのレース好きの写真愛好家のために舵を切った。それはレースと写真の両方のすばらしさをさらに知って欲しいと、鈴鹿サーキットで開催している「レースフォトグラファー体験講座」の講師として皆さんのお手伝いをしている。
皆さんがもしレースが好きならば、ぜひ8耐の長丁場のレースを目に焼き付かせて欲しい。スプリントにはないドラマと感動、人間の可能性と限界のほんの一コマでもそれは宝物になるはずです。
今回の"J'sGallery鈴鹿8時間耐久オートバイレース(第3話)"では、8耐のメインになるライダーではなく、お祭りとしての8耐を盛り上げてくれた人たちをクローズアップしました。
<写真/文:鈴木 雅雄>
今回の"J'sGallery鈴鹿8時間耐久オートバイレース(第3話)"では、8耐のメインになるライダーではなく、お祭りとしての8耐を盛り上げてくれた人たちをクローズアップしました。
<写真/文:鈴木 雅雄>
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