2010年6月8日火曜日

J'sGallery
鈴鹿8時間耐久オートバイレース 〜 第3話


ゴール後には、スタンドの観客が感動と興奮でピット前のコースを埋め尽くす。今年はキミもこの中に入らないか!
18歳でAMAのスーパースターに上り詰めたF.スペンサーも8耐には手こずった。

これまで2回にわたり、コカコーラ鈴鹿8時間耐久オートバイレースの初期を振り返ってきた。我々団塊の世代がこの8耐に出会ったのは、30歳前後だ。それだけにこの8耐には少し遅いが、青春の思い出とオーバーラップするところが多い。この話をする前に少し時代を戻してみる。
我々が中学生の頃は、3年生になるといつ免許の取れる16歳になるかが話題になり、高校ではクラスでもかなりの男子が二輪車の運転免許証を取得した。それほどバイクに乗るのは自然だった。CR110やCB72、トーハツのLD3など当時若者の誰もが憧れたスポーツバイクが各社から発売された頃だ。新車の記事やバイクレースの情報は、今とは異なり情報の伝達は遅くバイクの月刊誌から得る以外なかった。それだけに毎月、雑誌の発売を、首を長くして待っていたのを覚えている。
当時バイクの楽しみ方はツーリングが主体で、レースの存在はともかくあえて見に行こうとは思わなかった。レースをするのはごく一部の人間で、それは浅間のレースに代表されるダートでの競争やスクランブルレースが主だった。走る楽しさをバイクに求め、年に数度の販売店やクラス仲間とのツーリングが当時最大の楽しみで、人の走りを見て楽しむという遊びはまだ普及していなかった。まして興行としてのレースとなるとなおさらだ。

料金を払ってレースを観ることがわくわくする遊びとなったのは、1961年鈴鹿サーキットが完成してからだろう。鈴鹿は日本で初めて年間を通して定期的に二輪、四輪のレースを開催するようになった。現に私も高校生の時、兄と二人で四輪の日本グランプリを観るために鈴鹿まででかけたことがある。これが私のレースとの関わりの始まりであり、またフォトグラファーとしても原点だった。今ではサッカーで弾丸ツアーなるものがあるが、それに近い当時としては強行なスケジュールといえよう。
土曜日の夜10時東京発の東海道線大垣行きに乗り、朝5時名古屋着。この時ホームで食べた"きしめん"の味は今でも忘れられない。その後近鉄に乗り換えるが、これまた各駅停車。白子からボンネット型バスでサーキットに向うが、周りは田んぼ田んぼで舗装されていない地道。  
ところがサーキットに着いてみると、そこにはこれまで見た事のないすばらしい景色。大きなスタンドに舗装された幅の広いコース。その日、軽四輪のレースなどいくつかのレースの後、GPのメーンレースはスカイラインとポルシェ904の戦い。当然興奮しないはずはない。ここまで来てよかったと兄と話したのを今でも覚えている。帰路は東京駅朝5時着でそのまま帰宅。着替えて何事もなかったように学校に出かけた。足は当時愛用していたCB72タイプ1でした。
と長々と昔の話をしてしまったが、誰にもいろいろな思いでがあるでしょう。それがレースだとしたらその原点はどこにありますか。
私はその時鈴鹿で撮影した写真に満足出来ず、その後写真の道に入っていった。78年にはすでに雑誌にレース写真を掲載し、何度となく鈴鹿にも出かけていたが、これぞ金を払ってでも観たいレースだと、8耐の第一回大会には強い思い入れがあったのは事実だ。その後10年15年と時が過ぎ、94年で私の8耐は終わった。
その後は、私が経験した事をより多くのレース好きの写真愛好家のために舵を切った。それはレースと写真の両方のすばらしさをさらに知って欲しいと、鈴鹿サーキットで開催している「レースフォトグラファー体験講座」の講師として皆さんのお手伝いをしている。
皆さんがもしレースが好きならば、ぜひ8耐の長丁場のレースを目に焼き付かせて欲しい。スプリントにはないドラマと感動、人間の可能性と限界のほんの一コマでもそれは宝物になるはずです。



今回の"J'sGallery鈴鹿8時間耐久オートバイレース(第3話)"では、8耐のメインになるライダーではなく、お祭りとしての8耐を盛り上げてくれた人たちをクローズアップしました。


<写真/文:鈴木 雅雄>
83年にブルーヘルメットから参戦した井形まり。現在もレーシングスクールを開催している。
チームメイトの有馬さん(男)と172周して堂々の17位。
88年ネスカフェアメリカーナR.Tから参戦した、T.シャープレス/K.コバーンの米国女性ペア。
TVで見ない日はない程絶好調の紳助さんも、チームシンスケを率いて監督をしていた。
*掲載中の画像はクリックすると拡大表示されます。

2010年6月7日月曜日

J'sGallery
鈴鹿8時間耐久オートバイレース 〜 第2話

85年のスタートシーン。ウイリーするW.ガードナーの後方では、K.ロバーツはまだ押しかけ中だ。

台風の影響でレースが6時間に短縮された82年。鈴鹿に集まった多くの観客に、思わぬトラブルが待ち受けていた。プロ中のプロでさえまともに走れない大雨は、東海,関東の大動脈東名高速道路にも影響を与えた。翌日の出勤に向け多くの観客が、首都圏目指して東名高速へ向かったが、到着時間は大幅に遅れてしまった。
これほどの大変な思いをしても、8耐の人気は落ちるどころか観客数は、右肩上がりを記録した。それはバイクの生産台数からも理解できる。83,84年頃は生産台数がピークを向かえ、年間330万台〜340万台を数えるほどになった。バイクが当たり前のように、しかも自然体で街中を走り、トレールバイクにはクルマの屋根を見下ろせるモデルもあったほどだ。当然ライダー仲間では8耐に行くかどうかが、夏休みの話題にもなっていた。
観客数については、正式な数字はなかなか聞こえてこないが、当時はむしろ少なく発表していたのではないだろうか。公式発表された13万人、16万人といった観客数だけを見ても、今日ではとても考えられない大きな数字だ。

チケットブースが浮き上がるほど、多くの観衆がチケットを求め窓口に詰めかけた。

話を8耐のレースに戻そう。83年の第6回から大会名称が「コカコーラ鈴鹿8時間耐久オートバイレース」となり、世界選手権の第2戦に組み込まれた。また84年の第7回ではレギュレーションの変更で、排気量の上限をこれまでの1,000ccから750ccへスケールダウンとなった。      
ホンダはRS750Rでワークスを5チーム用意し、ワークスチーム同士のトップ争いを演じたが、R.ロッシ/W.ガードナーのR.ロッシが115周目に転倒、M.ボールドウイン/F.メルケルが勝利した。
85年の第8回は世界選手権第3戦となり、レースではこれまでにない8耐最高のドラマが展開された。
83年限りでグランプリロードレースを引退したキングケニーこと、K.ロバーツと日本のトップライダー平忠彦がペアを組んだ。資生堂のスポンサーで、男性化粧品の「テック21」がチームの名称、マシンの色にもなった。当然ゼッケンも21。これが国内企業初のワークスチームへのオールサポートの単独スポンサー契約ではなかったかと記憶している。
予想通りキングケニーは速かった。W.ガードナーよりも1秒近くも速いタイムでポールポジションを獲得したが、スタートでつまずき最後尾に順位をさげてしまった。ところがその後の追い上げもキングケニーで、38周目にはそれまでトップのW.ガードナー/徳野正樹と順位を入れ替えてしまう。
念願の首位に躍り出た瞬間だ。このままゴールしてほしいと願ったのは、チーム関係者だけでなくファンの誰もがそう思ったに違いない。ところが何もかもうまくいかないのはレースも同じ。チェツカーまで残り30分、突然平がスローダウン。しかもグランドスタンド前、コースとピットロードを隔てているコンクリート塀に、もたれかかるように止まる21番のマシン。
この瞬間これまで幾度となく、あと一歩の苦杯を味わったW.ガードナーの8耐初優勝の瞬間とともに、8耐のスーパースターとなる4回の優勝記録の出発点でもあった。

初勝利を喜ぶW.ガードナー/徳野ペア。この後ガードナーは4回シャンペンシャワーを味わう。

W.ガードナーのライディングフォームは,無理がなくとてもきれいだ。

一方平忠彦は、90年E.ローソンとのペアで勝利するまで、美酒はお預けとなった。
86年第9回大会は、前年マシンの完成度を増したヤマハのYZF750は、予選から快調そのもの。予選1位はW.ガードナー/D.サロンのRVF750が奪ったものの、2位にはK.ロバーツ/M.ボールドウインが入り、3位は平忠彦/C.サロンのYZF750が続いた。 
中盤までW.ガードナー/D.サロンとK.ロバーツ/M.ボールドウインが接戦を演じるがYZF750 のマシントラブルで戦列を離れていった。
こうなると敵無しのW.ガードナー/D.サロンは、2位と差を2ラップに広げて勝利し、W.ガードナーの8耐初の連覇達成を記録した。
このように毎回熱戦を繰り広げている8耐では、いつヤマハのYZF750は優勝するのか、あるいはW.ガードナーの三連勝は、はたまたポップ吉村氏のヨシムラスズキは、蘇るのかが新たな注目の的になってきた。
87年第10回。8耐直前のGPレースで負傷した平は、ライダーではなくチーム監督として指揮をとったが、首にまかれた包帯が痛々しかった。テック21のライダーM.ウイマー/K.マギーが王者W.ガードナー/D.サロンに正面から挑んだ。
しかしレース展開はまたまた予想を裏切り、予想の立たない8耐ならではの展開になっていった。まずポールポジションからスタートし、首位を走るW.ガードナー/D.サロンは、D.サロンの転倒でリタイア。
その後久々に首位に立ったヨシムラスズキのG.フェロー/高吉は、チェッカーまで残り5分というところで高吉が痛恨の転倒。この結果M.ウイマー/K.マギーのYZF750が、ヤマハワークスとしてテック21は初の8耐優勝に輝いた。この翌年の88年もYZF750は勝利し、ヤマハは連勝を遂げている。
8耐は名実ともにメジャーイベントとなった。華やかになって行く8耐は第3話に続く。
<文/写真:鈴木 雅雄> 

今は昔、大観衆で埋め尽くされた2コーナーを走るK.ロバーツ。ライダーからはどのように見えるのだろうか。

キングケニーことK.ロバーツ。その実力は見事に発揮された。

日本人スターライダーの平も8耐初参加。この後不運もあり初勝利は90年。

当時8耐ならではの写真といえば、この裏ストレートの逆光だ。空気が済んでいた証。
*掲載中の画像はクリックすると拡大表示されます。

2010年6月6日日曜日

J'sGallery
鈴鹿8時間耐久オートバイレース 〜 第1話

耐久レースの王者RCBがスタートを待つ。78年第一回大会のグランドスタンド前。スッキリとした空間が印象的だった。
今年で33回目になる鈴鹿8耐。その歴史は78年の第1回インターナショナル鈴鹿8時間耐久オートバイレースで始まった。それ以前にも73年に8時間耐久4時間耐久と、今日と同じ距離を競うレースは開催されていたが、あくまでも国内選手権の枠を超える事はなかった。やがて国内の経済が上向いてきたこととも重なり、若者は競ってバイクに乗り国内レースは活気を見せた。それに対応し二輪専門誌の海外のレースリポートも増えてきた。今とは違い雑誌の活字が読者と呼吸し合っていた。その結果多くのライダーが、未体験ゾーンに魅せられていったが、その代表的なモノがこの鈴鹿8時間耐久オートバイレースだった。(当時はコカコーラはスポンサーではなかった)。
当時の欧州耐久選手権では、ホンダRCB1000に乗るC・レオン/J・C・シュマランのフランス人ペアが、圧倒的な早さで76年77年と連続してチャンピオンを獲得していた。
そんな中で開催された第1回大会(78年)。多くのファンは耐久選手権のチャンピオン有利と予測したが、女神はプライベーターのヨシムラスズキのW・クーリー/M・ボールドウインのGS1000に微笑んだ。この予想を裏切った事が当時の若者の喝采を得て、その後の8耐神話(予想は立たない)の事の始まりと無縁ではない。
続く79年の第2回大会も、ポールポジションをとったモリワキレーシングのG・クロスビーがスタート直後から独走するも、ピット作業に手間取り首位が入れ替わる。その後ヤマハの金谷は転倒でマシンは炎上。木山、阿部のホンダチームも、首位に立つものの予想外のピットインで後退。それ以降も相ついで上位チームは転倒に見舞われた。優勝はチームHonda・オーストラリアハットン/コールのCB900だった。
80年の第3回から世界選手権第5戦に組み込まれた。この年は、北米のAMAで圧倒的な速さを誇っていたスペンサーが初参戦するも途中リタイヤ。中盤クーリー/クロスビーのGS1000とE・ローソン/G・ハンスフォードのZ1のトップ争いもローソンが転倒。首位を走るクロスビーは、ピットインでクーリ_とのライダー交代もせず走りきって勝利した。この3回目大会までを振り返っても、本命と思われるチームがいるのだが、必ずしもそのチームが勝利に輝いていない。それが鈴鹿8耐の予想が出来ない面白さではないだろうか。 
理由の一つに、地域的な気候があげられる。中京地域特有のムシムシとした高い湿度と高温。エンジン性能もさることながらライダーの健康管理も重要な要素になってくる。また高温の中で長距離走りきれるエンジンチューンも重要という。これまで3戦中2勝のポップ吉村氏の力量が光った。
これまで鈴鹿8耐で、最多の4勝をしているW・ガードナーの初参戦は81年だ。マシンはモリワキモンスターで、ただ一人2分14秒台でポールポジションを得るも途中リタイア。
この頃からオーストラリア人のライダーが、二輪レース界で頭角を現してきた。

第一回大会の覇者ボールドウインが乗るGS1000と、今は無いダンロップブリッジ。


ピットわきに設置されたホワイトボード。外人ライダーの名前はカタカナで書かれている。78年。

80年優勝のポップ吉村氏とクロスビー/クーリー。スタート前からリラックスしていた。



82年の夏のあの日。鈴鹿製作所の駐車場には、見渡す限りバイクが並んだ。決勝は台風にたたられた。

台風が接近している中で開催された82年は、スタート後も雨脚は弱ることなく降り続き、6時間に短縮された。海外チームを始め国内の有力チームの多くが、転倒とトラブルでリタイア続出した。そんな中日頃より雨中でのテスト走行もするという、メーカーのテストライダーチームの飯島/萩原ペアが優勝。4位までが日本人ペアが獲得した。
この8耐では雨中での撮影に苦労した記憶がある。コースサイドでは雨傘はさせない。カッパやポンチョで体は雨を避けられるが、当時はフィルムを使っていた。36枚撮りのフィルムは撮り終えれば交換しなくてはならない。ところがコースサイドで雨宿りできる場所は、コースポストしかない。その近くにいれば頼んでフィルム交換のときだけ入れてもらえるのだが、近くに無い所ではトラブル覚悟で体で覆いながら交換した。
6時間に短縮されると聞いた時、1台に新しいフィルムを入れた。ゴールと表彰式のために確保し、雨でいつトラブルを起こしても良いもう1台でレースを追っていたが、案の定モータードライブがショートして作動しない。その後のコースサイドでの撮影をあきらめゴールに戻った。そこで残りのI台で撮影したのがこの表彰式の写真だ。これ以降32回を数える今日まで、このときのような雨によるトラブルは起きていない。それはこのときの体験がカメラメーカーにも伝わり、今では防滴、防湿効果の高いカメラが開発されるようになった。


そんな意味でも、懐かしく、思い出の多い8耐の初期にバンザイ! 
隆盛期を迎える8耐は次週公開の第2話で、さらに人気を集めて行く8耐は第3話に続く。
<文/写真:鈴木 雅雄>



雨中のスタート。このときは誰もが短縮されるとは予想しなかった。82年。

豪雨の82年。テストライダーならではの堅実な走りで勝利した飯島/萩原と2位の伊藤/吉村の上位2チーム。

2010年6月5日土曜日

J'sGallery
300キロの巨漢VSダックスホンダST70


二人会わせて600キロ。この巨体に耐えられるのは、さすがメイド・イン・ジャパン品質。

二人の巨漢がまたがっているバイクは、HONDAのダックスホンダだ。時は1974 年の1月、場所は神宮の絵画館前の広場。なぜこんな大男が、それも双子のようによく似た二人が、大勢の観衆の前でバイクに乗ったのだろうか。
これは当時ちびっ子のプロレスファンに人気のあったプロレスラー、マクガイアー兄弟を起用してのHONDAの広報活動だった。
1969年8月15日から発売されたHONDAのダックスホンダ。排気量50ccと70ccの二つの排気量があり、それぞれのエクスポートタイプは、その年の9月上旬のアメリカを始め順次全世界で販売された。当時の価格は、50ccのST50及びエクスポートタイプが¥66,000。70ccのST70及びエクスポートタイプが¥69,000だった。ちなみの生産計画は月産15,000台(輸出を含む)と現在では考えられない程の数字だ。
当時のカタログによると、簡単に着脱できるフロント部分。折りたたみ式のハンドルとステップ。横にしてももれないガソリンタンクなど独自の機構で、乗用車のトランクにも入るコンパクトサイズ。
玄関先などの狭い場所への格納も容易です。という記述があるが、現在でも十分通用する機構や発想を備えていた。実際私も当時トランクに積み込み、サーキット内の移動によく利用した記憶がある。
一方、、巨漢のプロレスラーは、1946年12月生まれのツインズで米国人。兄のベニー・マクガイヤーは、188センチ304キロ。弟のビリー・マクガイヤーは、292キロの体重だ。
当時新日本プロレスでは、新春の呼び物として3回来日している。このダックスホンダでプロレス会場に入場するなど愛嬌を振りまき、ちびっ子ファンに人気があった。
あまりの巨漢なので、通常のクルマではドアから出入りが出来ないと、特製のクルマを用意して移動の足にしていた。ちなみのプロレスでの得意ワザは、二人ともボディープレスという。
<文/写真:鈴木 雅雄>
足がキックアームまで上がらないので、手で押し下げてエンジンスタート。さすがプロレスラーのパワー。
シートからはみ出している方が多い巨大なお尻。これでずり落ちないのだから意外に運動神経が良いのかも
*掲載中の画像はクリックすると拡大表示されます。

2010年6月4日金曜日

J'sGallery
ウィリー ギネス記録達成時のこと 〜 マシンについて


1991年の5月5日。この挑戦にご協力いただき、記録達成にご尽力いただいた方々と。
J'sGallery「ウィリー ギネス記録達成時のこと」に掲載された、記録挑戦用のマシンの改造箇所は以下の通りです。
フロント周り:
Fブレーキを無くし走行時の安定化を図る為、Fウィリーモーターを装備し、ドライブチェーンを介してフロントホイールを回転させるようにしました。また、フロントフェンダーは短くCUTして空気抵抗を減らす。
Fタイヤも同時に空気抵抗をなくす為、スリックタイヤに。10本ほど試作して1本だけ完成したIRC製の「一品モノ」です。
給油装置新設:
燃料補給の為ヘッドパイプ付近に「キャッチタンク方式」で1Lの燃料ボトルがスッポリ入る工夫をしました。
フュエルタンク:
燃料タンクは何個か試作してこの形に。ウィリー状態時にライダーの視線をさほど動かさなくても燃料残量が一目でわかる「残量計付き」(STD6L→10Lに)
Rブレーキ:
左手で操作可能な油圧式Rブレーキを装備しました。
フットブレーキも油圧化して、Rブレーキシステムは2系統にしてあります。
Rタイヤ:
これもIRC特製で「4.50−18」チューブタイプ。
ウィリー状態時の安定化を図る為、通常のサイズよりも幅広タイプ。トライアル界で一時(1973年頃?)流行したタイヤの復刻版ともいえます。
エンジン:
耐久性向上の為、ミッションギア、キックギア等を表面処理。また、ミッションオイル容量も少しUPさせました。
シート:
少ないシートスペースなので座り心地はあまりよくないが、給油時、マシンに立った状態で左足を乗せやすいよう工夫したデザインです。

メーター:
視界から近い位置にデジタルメーターを装備。メーターはおおよその距離を把握しながら走行するために必要なアイテムでした。

フレーム:
スタンダード仕様でステップ位置、ブレーキペダルを下げている。
キャブレター油面位置をウイリー状態時に路面とほぼ平行になるようにした為、キャブレター取り付け位置が傾いてしまい、その為フレームと干渉する部分を改造。

ナックルガード:
雨風対策として装着した。が、結構スグレモノでウィリー走行時の左右バランス安定化に貢献。(時速50〜60km付近)       
その他、色々トライしてお蔵入りしたモノのことも少し。
○ 左手でアクセル操作できる2系統アクセルワイヤー。発想は良かったけど操作困難でした。
○ 後輪リムに鉛装着して、安定化を図ったが重量増とRブレーキ負担が大きく、また燃料消費も多くてボツ!
以上ですが、この記録挑戦自体と同様に、本当に沢山の方々のご協力によって、このマシンも出来ています。この場をお借りして、改めてお礼を申し上げます。
<文:工藤靖幸 写真:鈴木 雅雄>
*掲載中の画像はクリックすると拡大表示されます。

2010年6月3日木曜日

J'sGallery
ウィリー ギネス記録達成時のこと 〜 その2



時速50〜60キロで淡々と走行しながら距離を重ねる工藤靖幸。

"ギネスレコード、それは世界一の記録"
19年前の5月5日は朝方こそひんやりとしていたものの、日中は初夏を思わせるとても暑い一日でした。JARI・谷田部テストコースの名物である長い長いストレートには、強烈な蜃気楼が立ち込めていたのをよく覚えています。全日本選手権でもないのにテレビ、雑誌等報道関係者を含め50名を超える関係者に見守られる中、工藤靖幸選手の「ウィリーギネス記録挑戦」は行なわれました。
チャレンジ開始は朝8時。表ストレート中央に本部を構える我々の前を、ひたすら工藤選手はTLMをウィリーさせながら震えるような排気音とともに蜃気楼の中から現れては、蜃気楼の中に消えていく。今思えばとても不思議な感覚の1日でした。
ハプニングは午前10時過ぎに起きました。万全を期して準備とトレーニングを積んできたはずなのに、あろうことか工藤選手はバランスを崩し、フロントタイヤを落下させてしまう。
30分足らずのインターバルで再度チャレンジは開始されました。そして終盤には周回を重ねるたびに歓声を浴びながら日没寸前の午後5時28分まで走り続け、叩き出したのが「ウィリーギネスレコード331.01915㎞」でした。
20年前、私は雑誌ライディングスポーツのトライアル担当編集をしていました。工藤選手と親しくさせて頂いたのは、初めて世界選手権に取材に行かせてもらった90年のフランス以来です。家が比較的近いこともあって、記録チャレンジ前から時折、特別に練習風景やマシン改良の過程も撮影させてもらいました。
工藤選手は九州男児よろしく、いつも朗らかで笑顔を絶やさず、それでいて黙々とトレーニングをこなし、こちらが失礼をしても決して感情を露わにするようなことのないライダーです。それは出逢った20年前も、そして今も変わりません。
けれど、19年前の5月5日、この日は違っていました。絶対に、完璧に記録を塗り替えるべく準備したこのチャレンジ。朝方はもちろんのこと、一度失敗を犯した再チャレンジ後はなおのこと、その表情にも全身にも決死の覚悟が露わな工藤選手でした。
ここにある写真たちは、あの暑い蜃気楼が立ち込める暑い一日と、彼の必死なチャレンジを語り掛けてくれています。2+7=合計9時間にも及ぶチャレンジで、鍛え抜かれた肉体が悲鳴を上げていたこともあるでしょう。また、長時間に及ぶ緊張のアクセルワークとバランス取りに、感覚が麻痺しかけていたこともあったことでしょう。自分自身に挑み続けて手に入れた「世界一」の記録がここにあります。
最後に、昨年、ツインリンクもてぎで開催された世界選手権トライアルで、デモンストレーションを披露する"ウィリーキング"工藤さんと再会しました。あれから20年経った彼は、新しい技を引っ下げて観衆の大きな拍手を集めていました。バレリーナのようにウィリーの状態のままで大旋回する「竜巻ウィリー」は、特注のタイヤを開発してもらって完成させた新しい技なんだと笑ってました。
<文:91年ライディングスポーツトライアル編集担当O 写真:鈴木 雅雄 >




今回のマシンのベースは、ホンダのトライアルバイクTLM220R。


ハンドルの上には1Lの燃料ボトルが収まるホルダーがある。またウイリーの安定化のためウイリーモーターを装備。

タンクには一目で分かる残量計を取り付けた。このシートは座り心地は良くないとのこと。

工藤靖幸。この記録挑戦のため、日頃からウイリーの練習には熱が入ったという。
*掲載中の画像はクリックすると拡大表示されます。

2010年6月2日水曜日

J'sGallery
ウィリー ギネス記録達成時のこと 〜 その1(続き)

kudo1-6-1.jpg
すべてから開放されてパドックへ戻ると応援していただいた方々の暖かいお迎えがありました。途中失敗してしまい心配させてしまいましたが、最後は自分も皆さんも笑顔で終れた1日でした。今もこの時も感謝の気持ちは変わりません「皆さん本当にありがとうございました」

そして、1991年5月5日、高速周回路の借用時間は午前5時〜午後5時までの5並び(ホントよ!)でも、スタートは準備等もあり朝8時からでしたね。
午前中、スタートから順調に走行距離を伸ばしていました。この走行時、私の頭の中は「233km」という数字とその記録保持者ダグ・ドモコス氏の顔が常に浮かんでいました。
作戦は走行距離を伸ばす上で体力を温存しながら、トイレ休憩&ガソリン補給(ウィリーしながら)も行い記録達成を狙う予定でした。
しかし、事件はまさにこの時(トイレ)起きたのです。トイレ(ウィリー走行しながら用を足す)が終わり、さて「行くぞ!」という瞬間、浮いている前輪が落ちかけたのです。
原因は同じスピード(平均スピード60km)で2時間ほど連続走行したあとに、トイレの為、急にスローダウンしたことによるスピード感覚のマヒでした。
今でも鮮明に覚えているシーンの一つです。素早く「アクセルを回した」のですが無念の前輪落下。
それまで聞こえていたバイクの排気音が違ったものになった。ほんの数秒後、右横をサポートカーがすり抜けて行きました。何ということをしたのだろう!!!!
自分を責め続けました。
でも時間は巻き戻しできません。スタッフのいる本部へ普通にバイク走行で到着すると応援してくれる方々にただ申し訳ない気持ち、1分1秒でも早く「ウィリー」したい気持ちが出ていました。
30分後再スタートしますとの案内があったようですが、あまり記憶になく今すぐ走り出したいとスタッフに言いましたが制止されました。
再スタート後は作戦変更、とにかく「記録達成」までは何もしない。ただひたすら233kmを超えることしか頭になく、手やお尻がしびれたりしても「我慢」でなく「無視」することにしました。
わかり易く言うと痛い、つらいとかいう言葉を無くす作戦です。燃料も何とかそこまでは無補給で行けそうだし、コース借用時間も何とか大丈夫だから、自分がただ「走れば」頭の中から233kmとドモコスの顔が消えると思って自分に言い聞かせました。
そういう状態での再スタートチャレンジなので、結果の数字は全く予想も出来ないものでした。
そして、6時間38分後、233kmと彼の顔から開放された時は、新しい数字が並んでいました。
「331kmと19m50cm」
すべてから開放されてパドックへ戻ると応援したいただいた方々の暖かいお迎えがありました。途中失敗してしまい心配させてしまいましたが、最後は自分も皆さんも笑顔で終れた1日でした。
今もこの時も感謝の気持ちは変わりません「皆さん本当にありがとうございました。」
最後にとても不思議なことですが、私の生年月日は昭和33年1月31日生まれ
その時33歳で世界1。
今もウィリー出来ます!!!
キックスタート  工藤靖幸

<文:工藤靖幸 写真:鈴木 雅雄>