2010年7月4日日曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第2話(続編)

公式練習後、ワークスサポート宮内選手と走り方やライバルライダーの様子など話をしている。1990年。

モトクロスの魅力にとりつかれて/増田 耕二(第2話・続編)
■二足のわらじ 1985年引き続きモトクロスチーム監督の立場で準備していたシーズンオフに突然アフリカに行くことになりました。ホンダ朝霞研究所でサポートしていたパリダカールラリーの参戦マシンをHRCが担うことになり、ラリーを視察しながら砂漠を走るマシンの構想を持ち帰るというたいへんな役目を命ぜられたのです。

新年の休みが明けてHRCの車体設計者と二人でパリダカールラリーの視察に出かけました。モトクロスの開幕は3月でまだ時間がある、ここはテスト屋という意識がアフリカへの気持ちを強くしました。初めてのアフリカで二人は右往左往しながらサハラ砂漠の村ニジェール国アガデスに入ることができました。
後半のパリダカラリーを追ってフランスホンダチームに帯同しながら出場マシンの観察やレース環境調査を行いました。特にBMWワークスマシンをマークしていました。夜の更けたモーリタニアの砂漠のキャンプ地でチームのライダーが帰ってくるのを待っていました。
そこに、G.ライエーの乗るBMWが我々のたき火に近寄ってきたのです。夜遅い時間であったためG.ライエーは自分のチームの居場所が分からずマシンを降りました。1973年G.ライエーのところでモトクロスを教わった事、スズキ時代モトクロスライダーで社名を背負い一緒に走った間柄でした。数年ぶりにアフリカの砂漠の中でこのような形で再開しお互いの立場を話し合うとは夢にも思いませんでした。
砂漠のレースという異次元の世界を見たアフリカから戻りましたが、直ぐにはモトクロス監督の仕事には就けませんでした。アフリカ出張報告に始まりアイデアの提出、レイアウト図面会議などパリダカールラリープロジェクトメンバーの仕事が待っていたのです。
1985年の全日本モトクロスレースは250ccクラスに集中し東福寺選手一人に絞って参戦しました。チームスタッフは優秀なスタッフが揃っていたおかげでHPP排気バルブエンジン搭載のマシンは準備できていました。東福寺選手が4勝するも、前年同様S.マーティン強しでした。
初めて経験したパリダカールラリーは初出場初優勝する結果を残しました。翌年以降も砂漠を走る怪物マシンのNXR750のテストに参画する事になりました。

■若手ライダー育成とオートマチックモトクロスマシン
4連覇したパリダカラリー参戦のプロジェクトが終了しました。1989年モトクロスマシン開発LPLとして復帰した私は東福寺選手に代わる次世代ライダーを育てなければなりませんでした。これまで幾人かの若手ライダーを起用してきましたが、残念ながら東福寺選手を超えませんでした。
1990年にはチーム監督の立場としてHRCの技術者でなく可能な限り走る側に立ってチーム運営をすることを心がけました。彼らには何とかトップライダーに到達して欲しいと意見を出し合いレースではメカニックだけに任せるのでなくチーム全員でライダーをバックアップする意識付けをしました。
元ライダーの立場でライダーから見やすい場所を選んで周回タイムやライダーの心理状態を観察しながらライダーのメンタルが上向く情報を出しました。時には多くの情報を得られるようサインボード2枚を同時に出すことも有りました。大きなボディアクションと大声を出してライダーの気力を呼び起こすサインも送りました。
ワークス活動は『レースに勝たなければ参戦している意味はない』と私が現役時代に会社のトップから教わった事です。このことを何時もライダーに意識付けしました。もちろんホンダに入社してからも先輩達の言葉、語録を肝に銘じチーム運営に心がけました。
開幕レースからどうすれば速く走る事ができるか考えた結果、シーズンオフにはアメリカのカルフォルニアにライダーを派遣しローカルレースに参加させて逸速くレース感を身に付け全日本モトクロスの開幕戦に備えることも考えました。
HRCはライダーの体力面も重要視し東海大学の先生から指導を受けモトクロスレースに対応できる体力作りにも取り組みました。ようやく東福寺選手を超えるライダーが現れたのです。
ホンダ朝霞研究所ではオフロード2輪車に搭載するオートマチックシステム(HFT)をCR250に搭載して研究開発を進めていました。HFT技術の開発も煮詰まり過酷な条件下で更に技術開発を行う事となりました。HRCは朝霞研究所と共同してHFTをモトクロスマシンに搭載しレースに参戦することを計画しました。私は既に40才になっていましたがHRCのテスト屋としても積極的にテストに参画しました。
開発が進み1990年は大塚忠和選手にHFT搭載マシンを託し全日本モトクロス選手権レースに臨みました。この年鈴鹿サーキットで行われたレースには本田宗一郎さんがモトクロスマシンに搭載したHFTのシステムを視察するため訪れました。HFTの基本技術は1962年発売されたジュノオ号に採用されていました。本田宗一郎さんは非常に関心が高くチーム監督として緊張しながらマシンの説明をした記憶があります。
残念ながら本田宗一郎さんの前では優勝するところは見せられませんでした。この年東福寺選手がシリーズチャンピオンを獲得してくれました。また、HRCは宮内隆行選手(マウンテンライダース)にワークスマシンを貸与するワークスサポートのバックアップも行いました。7戦(14ヒート)中の5ヒートに優勝し若手ラダーの最優良株として浮上しました。
1990年終了後のシーズンオフ、HFTはコンピュータシステムの改良と共に飛躍的に性能を向上させましました。アルミフレームの車体を含めマシン総合性能はコンベンショナルマシンと比較しても引けを取らない仕上がりでした。
いよいよ1991年型最新仕様のオートマチックモトクロスマシン(RC250MA)を誰に託すかという議論になりました。前年に実績を上げた宮内選手に託すことを決めました。若い宮内選手はチェンジペダルがないライディングの習得に素早い順応性を発揮し快進撃を展開しました。モトクロスオートマチックマシンと宮内選手のチャンピオンが誕生したのです。

シーズン終了後アメリカ人ライダーやヨーロッパの世界チャンピオンに試乗してもらいました。どのライダーもすばらしい出来上がりだとする評価をしました。だが、HFTを過酷な条件下のモトクロスレースで開発目的を達成したことにより翌年のレース参戦は見送られました。この時私にはHFTが後にDN−01として世に出てくる事は想像し得ませんでした。
私のモトクロスチームの指揮も若手に譲る時期となっていました。そして、私の仕事はロードレース、トライアルへと移行して行き、幸いにもそれからもレースに関わりながら『夢』を持ち続けることが出来ました。
<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>
1962年のジュノオ号→1991年RC250MA→2000年TRX500FA→そして、2008年DN-01(大型二輪スポーツクルーザー)へとHFTは受け継がれた。

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2010年7月3日土曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第2話

ストップウォッチで周回タイムや前後のライダーの差をチェックしながら、レース展開を想定しサインボードの出し方を考える。

モトクロスの魅力にとりつかれて/増田 耕二(第2話)

■新天地

1984年早々にHRCの役員からモトクロスチームの監督を命ぜられました。所属はテスト部隊でしたのでテスト屋としてワークスマシンの開発メンバーも兼ねていました。私が16才の五色台で初めてワークスチームを見た時から、19年経ってホンダのチーム監督に任命されたのは本当に信じられない出来事です。
大きな夢を持ち続けたことで運命が導いてくれたのではと思っています。仕事は待ったなしの即戦力を求められておりました。約7年弱滞在していたアメリカから日本へ帰って来てホンダとスズキの社風の違い、開発システムの相違、新しい人間関係などの周辺環境にできる限り早く順応せねばなりませんでした。任命されたワークスチーム監督のプレッシャーに押しつぶされそうな感じでした。
私はできの悪い高校生でしたし直感ひらめきタイプ人間で、まして学卒でもなくこれまでモトクロス一筋でやってきました。ホンダの優秀な技術者やデーターで議論する研究開発の場に参加できないのではと不安もありました。自分の中に作っていた目に見えない圧力を跳ね返すためにアメリカで走った、見たという変なプライドとホンダを一から勉強する気概を持って仕事に励みました。
HRCの新しい職場の仲間は厳しさを表しながら快く私をバックアップしてくれました。これまでのホンダのワークスチーム監督とは違う、自分の良いところを出してチームをまとめ上げようと心に誓いチーム運営に臨みました。
例えば、ワークスマシンの機密部分は非公開だが、レース場では観客やジャーナリストにできる限りワークスマシンを見てもらうためパドックに並べる努力をしました。初めて見た五色台のモトクロスのパドックで親切にしてくれたワークスチームのメカニックが心に焼き付いています。

1987年モトクロスGPで。私がアメリカで走っていた時AMAレースで闘った仲のアメリカ人ライダーのJ.ホーリー選手(カルフォルニア出身)と久しぶりの再会でした。メーカーは違うがレース場で会うと 『Kojiーsun』 と話しかけてくれた。
1988年神宮球場のスーパークロスにて。この年アメリカでスーパークロスチャンピオンとなったR.ジョンソン選手にサポート中。雨のコンディションでスコップを持ちスタートのラインナップを待っている。(現規則ではスコップ等道具による地ならし禁止)
■努力の結果
ホンダモトクロスチームには1975年私とチャンピオン争いをした杉尾良文選手や1976年最後に走った浅間テストコースのモトクロスGPで、その時セニア1年生だった後の偉大なチャンピオン東福寺保雄選手など日本のトップライダーが所属しておりました。タイプの違うライダー達、若いワークスメカニックをまとめることはかなり大変でした。
監督になったこの年、125ccクラスには背面型ロータリーバルブ方式のワークスマシンを投入しました。レースではエンジンのセッティングを出すのに大変てこずり、チャンピオンの東福寺選手に相当無理を強いる状態が続きました。これでは結果が残せないと、マシン開発チームと議論を重ねました。我々は平行してレースに投入していたピストンリードバルブ型エンジンに集中する決断をしました。東福寺選手はシーズン途中でマシンを変えた苦しみを乗り越え125ccクラスのシリーズチャンピオンを獲得しました。
一方、250ccクラスは第3戦からプライベーターチームに所属するアメリカからやってきたS.マーティン選手とトップ争いを展開した。後半戦では杉尾選手はS.マーティンの後塵を浴びる位置でフィニッシュする展開となりました。チャンピオンの決定は最終戦までもつれ込んだもののD.ベイリーやR.ジョンソンの外国人ライダー達に上位を独占され得点差を覆せずシリーズ順位は2位に終わりました。ホンダ市販車に乗るS.マーティンがアメリカから彗星のごとく現れてチャンピオンとなりました。
ホンダとしては1980年からのシリーズチャンピオンを維持できました。HRCのモトクロスチーム監督が務まるだろうかと心配して臨んだシリーズでしたが125ccクラスはヤマハからチャンピオンを取り返すことができました。
<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>


レースの勝敗が9割方決まってしまうスタートは大変重要である。 スタートダッシュができる様にマシンを並べる前に地ならしをする
1990年。レース前、東福寺選手に付いて待機中。常にライダーの脇にいてチーム監督の意志、チーム全員でサポートの姿勢を見せてライダーをバックアップする。
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2010年7月2日金曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第1話(続編)

1977年。ロスアンゼルスのオリンピックコロシアムでのスーパークロス。8万人の大観衆の前でレースは走る側も興奮しました。
モトクロスの魅力にとりつかれて(第1話・続編)/増田耕二
■ モトクロスライダーの最終章 アメリカへ
1977年3月憧れていたアメリカのモトクロスに本格的に参戦するためロスアンゼルス空港に降り立ちました。前年シーズンインを直前にして白須賀テストコースで転倒し負傷した私はシーズンの半分を棒に振ってしまいました。浅間高原自動車テストコースが封鎖されることになり最後のイベントとして1976年最終戦モトクロスGPが行われました。
モトクロスGPにおいて過去2年連続MVPを獲得していた私は今年もMVPだと決意して臨みました。しかしながら、気負い過ぎかモトクロスGP125ccクラスでの2位が最高でした。シリーズランキングも125ccでは11位、250ccは19位と全く振るいませんでした。
社内には若手ライダーがどんどん成長していました。私も、身の置き場所を考える時期となりました。シーズン後、モトクロスレース活動の最後は海外レースで走って『夢』を終わらせたいと考えました。当時の上司であった伊藤光夫さんに『最後は、アメリカでモトクロスレースがしたい』と打ち上げました。1973年から3年連続してアメリカのインターナショナルレースに参加してきて、すっかりアメリカが好きになっていたのでした。
スズキは1960年代のWGPロードレースで活躍された伊藤光夫さんを筆頭に、従業員ライダーで世界のGPレースに参戦していました。10数年後のモトクロスに於いても従業員ライダーである私や渡辺明にも同様な待遇でレースをさせてくれました。仕事で、いわゆるレースで実績を示せば願いを叶えてくれる理解ある上司や伝統的に温情有る会社の風土でした。
現在はどうか分かりませんが、当時スズキのモトクロスライダーは、世界チャンピオンと年1回必ず接する機会に恵まれたおかげで世界に目が向いていました。私はこれまでスポット参戦してきたアメリカで、モトクロスレースを終えたいと考えてました。アメリカには日本にないインターナショナルの独特な賞金システムもあり、観客の大きな歓声、エキサイトな応援を浴びてみたい気持ちが強かったのです。
■ アメリカAMAレース参戦
1977年は、AMAナショナルモトクロス開幕戦のサクラメント(ハングタウン)を皮切りに全米各地で行われたモトクロスレース、スーパークロスに参戦しました。スポット参戦した時と違って、スポーツ国籍の移籍制度がない時代だったことにより、ナショナルレースに参戦する最初の2年間は、ポイントの獲得が許されず参加するのみの特別選手枠で出場していました。
従って、全レースは予選レースから出場し、予選通過をしなければ本戦に進めませんでした。激戦の予選を通過することは大変でした。AMAのレースに参加するため、ダッジバンにマシンを積み込み自ら運転してアメリカ中を走りました。ワークス待遇を離れ自分でマシンを整備し、運搬をこなし、市販車改造マシンでの参加でした。
言葉も道路も生活スタイルも大きく変化しました。次から次に出てくる不安は、憧れていたアメリカでレースが出来るという『夢』の前には、さほど苦になりませんでした。AMAから最初にもらったゼッケン番号は『811』でした。レースの度にエイトイレブンで呼ばれました。
私が予選を通過するということは一人のアメリカ人ライダーが予選落ちするという現実があり、アメリカ人ライダーとの熾烈な戦いが有りました。時には激しい当たりもありましたがレースで少しずつ実績を積むとウエルカムな雰囲気が出てきました。誰もがAMAナショナルレースのトップライダーを目指しているのですから激しい闘いは当然でした。
3年目からは、2年間の実績が認められポイントがもらえるようになりました。アメリカ人ライダーとも打ち解け、理解を得られ、レース場ではみんなからKojiの名前で話しかけてもらいました。アメリカのモトクロス専門誌にも取り上げられアメリカに受け入れられたと感じました。そして、4年目のゼッケンは『89』になりました。
1978年 テキサス州ヒューストンで行われたスーパークロスに参戦するため、ロスアンゼルスからダッジバンにマシンを積み込み、いつものように一人でインターステイト10号線を2日間かけてヒューストン、アストロドーム(当時)に到着しました。
それでも体調、メンタルは良くレースが始まっても維持できました。1日目は目標にしていた予選通過を果たしました。2日目はアメリカ人もできなかった4連ジャンプの勝負どころを2回でクリアーしました。レース本番ではアメリカ人のトップライダー数人が同じようにジャンプしていました。
レース後優勝したB.ハンナ選手から『Koji,あのジャンプは本番まで取っておけば、おまえが優勝できたのに』と話しかけてきました。私は優勝することより自分が誰よりも早く『飛べないジャンプ台』にチャレンジすることを示したく公式練習で飛んだのです。レース結果は5位に入賞しました。
スズキには、自分の希望するアメリカのレースに1年だけという約束で送り出すという懐の深い裁量をしてくれ,更に4年もの長い期間を延長してレースをやらせてくれたことに感謝しています。ただ残念な事に、その後、スズキを去るという出来事が待っていました。
1983年私は、ライダーを退いても技術コーディネーターの役目でUSスズキに留まってモトクロスチームのサポート活動をしていました。そして、エースライダーであったM.バーネット選手のスーパークロスのチャンピオン獲得に貢献しました。
しかしながら、突然に変化がやってきました。スズキは翌年グローバル的にレース活動の縮小を策定しました。アメリカのモトクロス活動も例外的ではなく縮小することを決め、私はモトクロスから身を引くことになりました。
この出来事より以前に、HRCから私にこれまで経験したモトクロスをホンダに役立てて欲しいと誘いの話がありましたが、当初はあり得ない話と返事をしませんでした。しかし、シーズンの中盤戦に入った時期にレース縮小の話を聞かされ、スズキに残ってじっと復帰のチャンスを待つのか、これからもレースに情熱を注ぎ続けるためには35才の今あらたな決断をするしかないのではと、何度も何度も自分自身に問いかけ悩んだ末に、日本に帰る道を選択しました。
スズキで学んだモトクロスを生かすのではなく、新天地で私自身も勉強しながら日本のモトクロスに大きな貢献をする事、このことがお世話になったスズキに恩返しできるのではないかと考えました。そして、10月家族を伴って帰国、11月埼玉県新座市のHRCに入社しました。 
<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>
1979年、アメリカから日本に一時帰国した時の私。
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2010年7月1日木曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第1話

開幕戦谷田部のスタート風景。1973年の当時はスターティングマシンはなく日章旗の合図でスタートする。エンジンをかけてギャーは1速に入れクラッチを切り合図を待つ、スタート係のタイミングに合わせるのに苦労した
谷田部でのレースで、ヤマハの岩尾選手と競っているところ。ライディングスタイルの違いが分かる。何故かこの時のゼッケン3のビブを今でも持っている。

モトクロスの魅力にとりつかれて(第1話)/増田 耕二
■モトクロスとの出合い
1970年代の初め、MFJモトクロス全日本選手権の開幕戦といえば谷田部でした。
春とは言え寒さが残る3月、日本自動車研究所(JARI)内の広大な空き地でレースシーズンが始まるのが恒例でした。
早く走り出してしまいたい衝動に駆られながら日章旗の動きをじっと見つめていました。
私が初めてモトクロスレースを観戦したのは1965年16才、高校生の時でした。第3回モトクロスGPが四国・香川県の五色台で開催されると聞き、ホンダCS90で岡山県の宇野からフェリーで四国高松に渡り五色台の会場までたどり着きました。会場に漂うヒマシ油の燃焼した甘い排気ガスのにおい、2ストロークの甲高い排気音、急坂に悪戦苦闘している選手の姿に度肝を抜かれました。これがモトクロスレースなのか、モトクロスGPの会場で目にしたこの時の光景は今でも忘れません。
これまでモーターサイクリストなどのバイク誌の写真でしか見たことのないワークスマシン、有名なファクトリーライダーの走り、ワークスメカニックの仕事ぶり、目の前で展開している会場の独特なレースの雰囲気は、田舎の高校生の私には見るもの、聞こえるもの全て驚きでした。中でも、スズキワークスライダーの小島松久選手、久保和夫選手がヨーロッパのモトクロスに出場して来た事を告げる場内アナウンスは更なる強いインパクトがありました。
『自分は街の中を粋がって乗り回しているだけだ、レースで速くなれば世界に行けるんだ。オートバイに乗って外国へ、ヨーロッパに行けるなんてすごい』自分も速くなって海外に行ってみたいという思いが頭の中に生まれました。当時は海外へ行くということは直ぐには考えられない時代で、それでも外国でレースという『夢』を抱きました。
岡山に帰るとそれまで街の中を乗り回していたホンダCS90のハンドルとタイヤを交換し、バイク仲間と岡山市を流れる旭川の河川敷でモトクロスに熱を入れました。その後地元岡山や倉敷の河川敷でも全日本選手権レースが開催され参加を果たしました。高校を卒業しても『いつかはワークスライダーになりたい』と心に秘めながらモトクロスを続けていました。

■ 岡山から浜松へ
1970年突然、幸運な出来事が巡ってきました。スズキはモトクロス世界選手権のチャンピオンを獲得すると創立50周年を記念して全国各地にスズキオートランドというモトクロス場を開設し、オフロードのイベントを企画して若者にオフロードの楽しさを提供しました。
この出来事は私が夢に一歩近づくチャンスを与えてくれたのです。それまでモトクロス活動を支援してくれた人やバイク仲間の心温まるバックアップにより、3月にスズキ岡山という代理店の現地採用特別枠でスズキに中途入社することが出来ました。高校では留年も覚悟したできの悪い生徒であった私がスズキという大きな会社に入れたことを両親やお世話になったアルバイト先のバイク店の主人に喜んでもらいました。
特にバイク店の主人は今度は店をやめることで迷惑をかけるにもかかわらず快く送り出してくれました。私の仕事は代理店で二輪の修理サービス業務を行いながらモトクロスの普及も行うことでした。もちろん全日本モトクロスレースにも参加していました。五色台のモトクロスGPから6年目にして『夢』の扉の前に到達したのでした。
そして何と、その年の9月に代理店での仕事やレース活動が認められ、本社の技術部レース部門への異動辞令が届きました。レース部門の人がレースの様子を観察し、テストライダーとして可能性を持っていると判断して浜松のスズキ本社に呼んだのです。
とうとう『夢』にまで見たワークスマシン開発の中枢に到達するという信じられないことが起きたのです。ワークス契約ライダーでないにしろスズキ本社のモトクロスワークスマシン開発のメンバーになれたのです。私はその事によって、目標を高く持つ、チャンスを見逃さない、努力を怠ってはいけない、全てに感謝することを忘れてはならないことを学びました。
シーズンが終了すると技術開発も活発になり、静岡県湖西市の白須賀モトクロステストコースに出かける頻度が多くなりました。開発部門の先輩メカニック、技術者にしごかれテストコース脇にある小石の位置を知り尽くすほどコースの周回を重ねました。
翌年のマシン仕様が決定すると世界チャンピオンのJ.ロベール、R.デコスター、G.ライエーやS.ゲボースらが来日して確認テストを行いました。もちろん、このテストに参加させてもらい、彼らの一つ一つの挙動を観察し彼らを真似ることから始め速くなりたい一心でテストに励みました。チャンピオンのR.デコスターからテストに邪魔になるという苦情までももらいました。
■恒例の開幕戦、谷田部
1972年の開幕戦谷田部は、ホンダが初めてモトクロスにワークス参戦し、国内4メーカーによる激突となりました。特にホンダのワークスマシンの注目度が高く、これまでにない緊迫した雰囲気でした。スズキから吉村太一選手、上野広一選手がホンダに移籍したため、スズキは私を含めた従業員テストライダーにもワークスメカニックを付けるというワークスライダー待遇の体制を敷いて臨んだ開幕戦となりました。
私にとって16歳の『夢』の扉が開いた時でもありました。レースはヤマハが優勢で鈴木兄弟の兄の秀明選手が優勝、弟の都良夫選手が2位に入りました。残念ながら私は結果を残せませんでした。この年の中盤、スズキはベルギーからガストン・ライエーという若いモトクロスライダーを招聘し、全日本モトクロスへ参加させました。日本人ライダーを寄せ付けないガストン・ライエーは、ヨーロッパの高い走行レベルを見せつけ何度も優勝を勝ち取ったのでした。
翌1973年は、サスペンション戦争が本格的に始まったシーズンとなりました。ヤマハはこれまでのツインリヤーショックから、モノサスという新しいシステムをワークスマシンに装備し開幕戦の谷田部に持ち込みました。
その年、私は同僚の池田君と二人でシーズンオフの1月初めから3月の開幕戦直前まで、ヨーロッパのモトクロスを学ぶためベルギーのガストン・ライエーのところに出かけておりました。雨の日が続くベルギーで毎日練習に明け暮れ、日曜日はインターナショナルのレースに参加しR.デコスターやH.ミッコラなど世界のトップライダーとも競いました。これで大きな自信を得ることができました。
スズキのマシンは前年度型を熟成させたマシンで開幕戦に臨みました。私は直前までベルギーに行っていたため、レース本番車のセッティングはほとんど出来ませんでした。 しかし、ヨーロッパで走って来たという自信を持って開幕戦谷田部入りしたのです。
レースがスタートすると何かがおかしいと感じました。ヤマハのライダーは私以上に自信有る走りであり、どんどん離れて行くのでした。私はジャンプとギャップの中、ヤマハ勢に歯が立たず全く良いところなしでした。このモノショックはオフシーズンの間、密かにヤマハが研究開発していたのでした。惨敗した我々スズキは、レース後ヤマハのモノサスに対抗すべきリヤーサス構造やサスペンション自体の研究開発を急いでやらなければなりませんでした。
谷田部のコースは、日本自動車研究所内の平坦地に特設的にレイアウトされ、アップダウンがなくジャンプとコーナーの連続でした。ヤマハのモノサスが有利に展開できたコースでもありました。谷田部名物の第1コーナーは、スタートライン幅のまま広く、5速全開で進入し逆ハン走行で曲がって行く豪快に走るライダーを見ることが出来、来場した多くの観客に喜ばれました。比較的スピードの出るコースで私も好きでした。しかし、好きなコースとは言っても、結果はいつも裏腹で、何故か開幕戦は気負い過ぎて、自分が思ったようには走れず谷田部は成績を残していない苦い思い出ばかりのレース場でした。


1973年開幕戦谷田部でのセニア125ccクラスのスタートシーン。私#3は第1コーナーはイン側が有利と考え、一番イン側に位置取りした。好スタートを切ったのはヤマハの鈴木都良夫選手。
1973年当時の私。公式練習からワークスライダーは見る人達にとって憧れでなければならない。走りの凄さや、速さ、そしてスタイルに目立たなければならない。
■ スズキの50V作戦
1970年スズキは創立50周年を記念してモトクロスの普及に力を入れました。50V作戦と呼ばれその普及活動により、全国各地の山間部にオートランドが開設され、そこで開催されるイベントの運営は各県にある代理店、販社の方々が行っていました。スズキ従業員でワークスライダーとなった私は、各地のオートランドに出かけイベントの招待選手としてモトクロスの好きな若者達に混じって走りました。全日本選手権レースの日程終了後には、白須賀テストコースで全国大会を開催し、スズキの世界チャンピオンを参加させ、有名芸能人の来場もあり全国各地から観客が来場しました。その数は数万人規模でモトクロスGPに匹敵する程でした。オフロード好きの60才・50才前後の方には、スズキオートランドや全国大会の良き思い出が有るかと思います。
スズキはソフト面でも全国規模のイベントや、毎年デザインを変えたモトクロスジャージ、グッズを披露するなどオフロードを大いに盛り上げていました。目立ちたがりの私はこれまでのダーク系の皮製モトクロスパンツに満足せず、赤色のモトクロスパンツで走れば注目度ナンバーワンだと考え、浜松の櫛谷商店に頼み込んで派手な赤色モトクロスパンツを作ってもらったりもしました。レースの時は、スズキの黄色と青のモトクロスジャージ、ブルーのベルヘルメット、あこがれの世界チャンピオンのJ.ロベールが履いていたSIDIブーツで決めたものでした。
1973年の後半、第1次オイルショックが起こり日本中が大騒ぎになりました。スーパーではトイレットペーパーや洗剤が買い占められて日曜品がなくなり、ガソリンスタンドも長い車列に並ばなくてはならない大変な状況でした。だが、こんな大騒ぎの中でもモトクロスマシンの技術開発は止まりませんでした。
ただ、翌年のレース環境は厳しくなり、従業員ライダーのレース参戦を制限する計画が持ち上がったのです。当然、私を含めて従業員ライダーは大きな不満を漏らすようになり、しかし、この騒動が発端で当時スズキの専務だった鈴木修さんにお会いすることができました。上司の伊藤光夫さん、渡辺明共々役員室に呼ばれ、このごたごたの説明をする羽目になったのです。
従業員ライダーも一生懸命に技術開発やテストを行っていること、仕事の目標である『レースに出てスズキの技術を示したい』との想いを切実に訴えました。その結果、専務からは『よし分かった、レースは出るからには勝たなければならない』と厳しい注文を出されレースへの続行が認められたのです。
1974年、サスペンションシステムはレイダウン方式にされ、ヤマハに対抗できるまで煮詰められたのでした。鈴木専務との約束は、モトクロスGPの125ccクラスで優勝したことで果たすことができました。しかしながら、その他の大会では自ら転倒したり、マシントラブルで結果を残せずシリーズとしては不本意に終わってしまいました。
このシーズン、ヤマハは125で水冷エンジンを投入しサスペンションからエンジンへの技術開発へ移行する取り組を見せました。スズキも早急に新エンジンの開発に取りかかる必要があったものの、サスペンションの改良を優先させ、より安定して走る事が出来るマシンの追求を行ったのです。
私は、シリーズランキングは8位だったにもかかわらずスズキの温情的な考えで、シーズン終了後、前年に引き続きアメリカのインターナショナルレース500ccクラスに参戦できました。そこで、ヨーロッパのトップライダー、アメリカ人ライダーと競うことが出来たことで、大きな自信を持ち帰ることが出来ました。
1975年は、前後のサスペンション開発も進歩しさらに速く走れるマシンが仕上がりました。そして、アメリカのレースで身につけた自信を持って臨んだこの年の鈴鹿サーキットで行われたモトクロスGPで、125ccクラスと250ccクラスでダブル優勝したのです。250ccクラスで3勝、2位2回、3位1回を上げてシリーズチャンピオンも獲得しました。 

<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>

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