2010年7月4日日曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第2話(続編)

公式練習後、ワークスサポート宮内選手と走り方やライバルライダーの様子など話をしている。1990年。

モトクロスの魅力にとりつかれて/増田 耕二(第2話・続編)
■二足のわらじ 1985年引き続きモトクロスチーム監督の立場で準備していたシーズンオフに突然アフリカに行くことになりました。ホンダ朝霞研究所でサポートしていたパリダカールラリーの参戦マシンをHRCが担うことになり、ラリーを視察しながら砂漠を走るマシンの構想を持ち帰るというたいへんな役目を命ぜられたのです。

新年の休みが明けてHRCの車体設計者と二人でパリダカールラリーの視察に出かけました。モトクロスの開幕は3月でまだ時間がある、ここはテスト屋という意識がアフリカへの気持ちを強くしました。初めてのアフリカで二人は右往左往しながらサハラ砂漠の村ニジェール国アガデスに入ることができました。
後半のパリダカラリーを追ってフランスホンダチームに帯同しながら出場マシンの観察やレース環境調査を行いました。特にBMWワークスマシンをマークしていました。夜の更けたモーリタニアの砂漠のキャンプ地でチームのライダーが帰ってくるのを待っていました。
そこに、G.ライエーの乗るBMWが我々のたき火に近寄ってきたのです。夜遅い時間であったためG.ライエーは自分のチームの居場所が分からずマシンを降りました。1973年G.ライエーのところでモトクロスを教わった事、スズキ時代モトクロスライダーで社名を背負い一緒に走った間柄でした。数年ぶりにアフリカの砂漠の中でこのような形で再開しお互いの立場を話し合うとは夢にも思いませんでした。
砂漠のレースという異次元の世界を見たアフリカから戻りましたが、直ぐにはモトクロス監督の仕事には就けませんでした。アフリカ出張報告に始まりアイデアの提出、レイアウト図面会議などパリダカールラリープロジェクトメンバーの仕事が待っていたのです。
1985年の全日本モトクロスレースは250ccクラスに集中し東福寺選手一人に絞って参戦しました。チームスタッフは優秀なスタッフが揃っていたおかげでHPP排気バルブエンジン搭載のマシンは準備できていました。東福寺選手が4勝するも、前年同様S.マーティン強しでした。
初めて経験したパリダカールラリーは初出場初優勝する結果を残しました。翌年以降も砂漠を走る怪物マシンのNXR750のテストに参画する事になりました。

■若手ライダー育成とオートマチックモトクロスマシン
4連覇したパリダカラリー参戦のプロジェクトが終了しました。1989年モトクロスマシン開発LPLとして復帰した私は東福寺選手に代わる次世代ライダーを育てなければなりませんでした。これまで幾人かの若手ライダーを起用してきましたが、残念ながら東福寺選手を超えませんでした。
1990年にはチーム監督の立場としてHRCの技術者でなく可能な限り走る側に立ってチーム運営をすることを心がけました。彼らには何とかトップライダーに到達して欲しいと意見を出し合いレースではメカニックだけに任せるのでなくチーム全員でライダーをバックアップする意識付けをしました。
元ライダーの立場でライダーから見やすい場所を選んで周回タイムやライダーの心理状態を観察しながらライダーのメンタルが上向く情報を出しました。時には多くの情報を得られるようサインボード2枚を同時に出すことも有りました。大きなボディアクションと大声を出してライダーの気力を呼び起こすサインも送りました。
ワークス活動は『レースに勝たなければ参戦している意味はない』と私が現役時代に会社のトップから教わった事です。このことを何時もライダーに意識付けしました。もちろんホンダに入社してからも先輩達の言葉、語録を肝に銘じチーム運営に心がけました。
開幕レースからどうすれば速く走る事ができるか考えた結果、シーズンオフにはアメリカのカルフォルニアにライダーを派遣しローカルレースに参加させて逸速くレース感を身に付け全日本モトクロスの開幕戦に備えることも考えました。
HRCはライダーの体力面も重要視し東海大学の先生から指導を受けモトクロスレースに対応できる体力作りにも取り組みました。ようやく東福寺選手を超えるライダーが現れたのです。
ホンダ朝霞研究所ではオフロード2輪車に搭載するオートマチックシステム(HFT)をCR250に搭載して研究開発を進めていました。HFT技術の開発も煮詰まり過酷な条件下で更に技術開発を行う事となりました。HRCは朝霞研究所と共同してHFTをモトクロスマシンに搭載しレースに参戦することを計画しました。私は既に40才になっていましたがHRCのテスト屋としても積極的にテストに参画しました。
開発が進み1990年は大塚忠和選手にHFT搭載マシンを託し全日本モトクロス選手権レースに臨みました。この年鈴鹿サーキットで行われたレースには本田宗一郎さんがモトクロスマシンに搭載したHFTのシステムを視察するため訪れました。HFTの基本技術は1962年発売されたジュノオ号に採用されていました。本田宗一郎さんは非常に関心が高くチーム監督として緊張しながらマシンの説明をした記憶があります。
残念ながら本田宗一郎さんの前では優勝するところは見せられませんでした。この年東福寺選手がシリーズチャンピオンを獲得してくれました。また、HRCは宮内隆行選手(マウンテンライダース)にワークスマシンを貸与するワークスサポートのバックアップも行いました。7戦(14ヒート)中の5ヒートに優勝し若手ラダーの最優良株として浮上しました。
1990年終了後のシーズンオフ、HFTはコンピュータシステムの改良と共に飛躍的に性能を向上させましました。アルミフレームの車体を含めマシン総合性能はコンベンショナルマシンと比較しても引けを取らない仕上がりでした。
いよいよ1991年型最新仕様のオートマチックモトクロスマシン(RC250MA)を誰に託すかという議論になりました。前年に実績を上げた宮内選手に託すことを決めました。若い宮内選手はチェンジペダルがないライディングの習得に素早い順応性を発揮し快進撃を展開しました。モトクロスオートマチックマシンと宮内選手のチャンピオンが誕生したのです。

シーズン終了後アメリカ人ライダーやヨーロッパの世界チャンピオンに試乗してもらいました。どのライダーもすばらしい出来上がりだとする評価をしました。だが、HFTを過酷な条件下のモトクロスレースで開発目的を達成したことにより翌年のレース参戦は見送られました。この時私にはHFTが後にDN−01として世に出てくる事は想像し得ませんでした。
私のモトクロスチームの指揮も若手に譲る時期となっていました。そして、私の仕事はロードレース、トライアルへと移行して行き、幸いにもそれからもレースに関わりながら『夢』を持ち続けることが出来ました。
<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>
1962年のジュノオ号→1991年RC250MA→2000年TRX500FA→そして、2008年DN-01(大型二輪スポーツクルーザー)へとHFTは受け継がれた。

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