2010年7月2日金曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第1話(続編)

1977年。ロスアンゼルスのオリンピックコロシアムでのスーパークロス。8万人の大観衆の前でレースは走る側も興奮しました。
モトクロスの魅力にとりつかれて(第1話・続編)/増田耕二
■ モトクロスライダーの最終章 アメリカへ
1977年3月憧れていたアメリカのモトクロスに本格的に参戦するためロスアンゼルス空港に降り立ちました。前年シーズンインを直前にして白須賀テストコースで転倒し負傷した私はシーズンの半分を棒に振ってしまいました。浅間高原自動車テストコースが封鎖されることになり最後のイベントとして1976年最終戦モトクロスGPが行われました。
モトクロスGPにおいて過去2年連続MVPを獲得していた私は今年もMVPだと決意して臨みました。しかしながら、気負い過ぎかモトクロスGP125ccクラスでの2位が最高でした。シリーズランキングも125ccでは11位、250ccは19位と全く振るいませんでした。
社内には若手ライダーがどんどん成長していました。私も、身の置き場所を考える時期となりました。シーズン後、モトクロスレース活動の最後は海外レースで走って『夢』を終わらせたいと考えました。当時の上司であった伊藤光夫さんに『最後は、アメリカでモトクロスレースがしたい』と打ち上げました。1973年から3年連続してアメリカのインターナショナルレースに参加してきて、すっかりアメリカが好きになっていたのでした。
スズキは1960年代のWGPロードレースで活躍された伊藤光夫さんを筆頭に、従業員ライダーで世界のGPレースに参戦していました。10数年後のモトクロスに於いても従業員ライダーである私や渡辺明にも同様な待遇でレースをさせてくれました。仕事で、いわゆるレースで実績を示せば願いを叶えてくれる理解ある上司や伝統的に温情有る会社の風土でした。
現在はどうか分かりませんが、当時スズキのモトクロスライダーは、世界チャンピオンと年1回必ず接する機会に恵まれたおかげで世界に目が向いていました。私はこれまでスポット参戦してきたアメリカで、モトクロスレースを終えたいと考えてました。アメリカには日本にないインターナショナルの独特な賞金システムもあり、観客の大きな歓声、エキサイトな応援を浴びてみたい気持ちが強かったのです。
■ アメリカAMAレース参戦
1977年は、AMAナショナルモトクロス開幕戦のサクラメント(ハングタウン)を皮切りに全米各地で行われたモトクロスレース、スーパークロスに参戦しました。スポット参戦した時と違って、スポーツ国籍の移籍制度がない時代だったことにより、ナショナルレースに参戦する最初の2年間は、ポイントの獲得が許されず参加するのみの特別選手枠で出場していました。
従って、全レースは予選レースから出場し、予選通過をしなければ本戦に進めませんでした。激戦の予選を通過することは大変でした。AMAのレースに参加するため、ダッジバンにマシンを積み込み自ら運転してアメリカ中を走りました。ワークス待遇を離れ自分でマシンを整備し、運搬をこなし、市販車改造マシンでの参加でした。
言葉も道路も生活スタイルも大きく変化しました。次から次に出てくる不安は、憧れていたアメリカでレースが出来るという『夢』の前には、さほど苦になりませんでした。AMAから最初にもらったゼッケン番号は『811』でした。レースの度にエイトイレブンで呼ばれました。
私が予選を通過するということは一人のアメリカ人ライダーが予選落ちするという現実があり、アメリカ人ライダーとの熾烈な戦いが有りました。時には激しい当たりもありましたがレースで少しずつ実績を積むとウエルカムな雰囲気が出てきました。誰もがAMAナショナルレースのトップライダーを目指しているのですから激しい闘いは当然でした。
3年目からは、2年間の実績が認められポイントがもらえるようになりました。アメリカ人ライダーとも打ち解け、理解を得られ、レース場ではみんなからKojiの名前で話しかけてもらいました。アメリカのモトクロス専門誌にも取り上げられアメリカに受け入れられたと感じました。そして、4年目のゼッケンは『89』になりました。
1978年 テキサス州ヒューストンで行われたスーパークロスに参戦するため、ロスアンゼルスからダッジバンにマシンを積み込み、いつものように一人でインターステイト10号線を2日間かけてヒューストン、アストロドーム(当時)に到着しました。
それでも体調、メンタルは良くレースが始まっても維持できました。1日目は目標にしていた予選通過を果たしました。2日目はアメリカ人もできなかった4連ジャンプの勝負どころを2回でクリアーしました。レース本番ではアメリカ人のトップライダー数人が同じようにジャンプしていました。
レース後優勝したB.ハンナ選手から『Koji,あのジャンプは本番まで取っておけば、おまえが優勝できたのに』と話しかけてきました。私は優勝することより自分が誰よりも早く『飛べないジャンプ台』にチャレンジすることを示したく公式練習で飛んだのです。レース結果は5位に入賞しました。
スズキには、自分の希望するアメリカのレースに1年だけという約束で送り出すという懐の深い裁量をしてくれ,更に4年もの長い期間を延長してレースをやらせてくれたことに感謝しています。ただ残念な事に、その後、スズキを去るという出来事が待っていました。
1983年私は、ライダーを退いても技術コーディネーターの役目でUSスズキに留まってモトクロスチームのサポート活動をしていました。そして、エースライダーであったM.バーネット選手のスーパークロスのチャンピオン獲得に貢献しました。
しかしながら、突然に変化がやってきました。スズキは翌年グローバル的にレース活動の縮小を策定しました。アメリカのモトクロス活動も例外的ではなく縮小することを決め、私はモトクロスから身を引くことになりました。
この出来事より以前に、HRCから私にこれまで経験したモトクロスをホンダに役立てて欲しいと誘いの話がありましたが、当初はあり得ない話と返事をしませんでした。しかし、シーズンの中盤戦に入った時期にレース縮小の話を聞かされ、スズキに残ってじっと復帰のチャンスを待つのか、これからもレースに情熱を注ぎ続けるためには35才の今あらたな決断をするしかないのではと、何度も何度も自分自身に問いかけ悩んだ末に、日本に帰る道を選択しました。
スズキで学んだモトクロスを生かすのではなく、新天地で私自身も勉強しながら日本のモトクロスに大きな貢献をする事、このことがお世話になったスズキに恩返しできるのではないかと考えました。そして、10月家族を伴って帰国、11月埼玉県新座市のHRCに入社しました。 
<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>
1979年、アメリカから日本に一時帰国した時の私。
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