2010年4月4日日曜日

J'sGalley
シルクロードでシルクロードを走る 〜 第4話


玉門関で休憩をしていると、どこからともなく集まってきた住民?。ところが周りには建物はない!
〜どこまで追えるか,夢〜(第4話)
1日目の行程は、約400キロを走り敦煌に到着。敦煌は、ポプラ並木が続く砂漠のオアシスの街である。
世界的な遺産として脚光を浴びる漠こう屈で一躍有名になった、シルクロードの交易で栄えた地である。
街は大変砂埃に満ちており、路面にも随所に砂が溜まっている。シルクロードとイーハトーブは、快調に我々とともに歴史の道を走ってきた。
敦煌を基点に、漠こう屈や砂漠の中の泉「月牙泉」の周辺の砂漠を走る許可を得た。道なき道を走る爽快感は格別のものである。風が造る風紋の中をシルクロードがひた走る。我々が歴史の一部を砂漠に残した轍は、風とともにすぐ消えてしまうのであろう。
敦煌から西に約50キロの砂漠の中にある当時の狼煙台の玉門関まで走る。ここが我々の最終地点となる。玉門関から西に道なき道が続くが、この先は時代が変わってから走ることが出来るかもしれない。我々一行は、はるか西方の中央アジアやヨーロッパまで続くシルクロードに思いを馳せながら、調査隊としての任務を終えた。
このシルクロード調査隊でライダーとして参加いただいた万沢氏とシルクロードは、鈴木カメラマンによる撮影で、シルクロードのポスターや広告、カタログなどにより広く日本のバイクファンに届けられた。また、TBS映画社製作によるシルクロードツアーの模様は、16mmフィルムに収められ、ホンダの代理店や二輪販売店に貸し出され、各地で映写会が開催されている。
なお、目的の一つである、日本のライダーに向けたシルクロードツーリングは、1983年に第一回が実施された。Hondaが中国側と契約し走行を認められた、調査隊で走破したルートに沿って、日本のバイクライダーの夢とロマンを実現した。
これら一連の仕事に携わり、まさに「どこまで追えるか、夢」を具現化できたことは、かけがえの無い思い出となっている。(完)
<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄>


敦煌から75キロに位置する玉門関は、古代の関所だ。当時は約2千人もの兵士がこの関所を守っていたという。現在はフェンスで囲まれている。


これぞシルクロードだと、走りを実感した。360度見渡す限り何もなくただただ砂漠がどこまでも続いている。



玉門関近くを流れる疎勒川。周りの景色からして水が流れているとは想像もつかない。三蔵法師も見た景色か。
 

敦煌の近くの踏切で重連SLの通過を待つ一行。ウルムチまで行くのだろうか

silk4_6.jpg
休憩を取る調査隊とサポートしてくれた一行(青いジャージは公安職員)と車両。

silk4_7.jpg
酒泉の招待所(地方を視察する幹部共産党員のための宿泊施設)で整備を終えたバイク。時刻は夜9時を過ぎていた

2010年4月3日土曜日

J'sGalley
シルクロードでシルクロードを走る 〜 第3話

 
月牙泉近くの鳴沙山は、これまでのゴビ砂漠とは異なりサラサラしたタカラマカン砂漠の砂質だった。

〜どこまで追えるか,夢〜(第3話)
我々に走行が許された区間は、甘粛省酒泉から敦煌までの約400キロと、敦煌以西の玉門関と陽関までのわずかな距離である。
酒泉の街では、我々のスタートのために、この街の名所であろう鐘楼の中を特別に通行してのスタートとなった。
街の人々の目は奇異に満ち、見たことも無いバイクにカラフルなライディングウエアに身構えた我々の走りをただただ追うだけである。我々のバイク部隊の前は、中国側の先導車のジープが走る。全て中国側の管理の下に行なわれる。
酒泉の街を抜けると、淡々とした簡易舗装の道が延々と続く。シルクロードの空気は歴史の重みを含んだ言葉に言い表せないものであった。万里の長城の西の果てにあたる嘉峪関に到着。古の人々が築き上げた長城の一部に触れ、改めて中国の歴史の長さと、想像を絶する偉大な建造物に携わった人々の苦労が偲ばれる。
シルクロードを走る車両は少なく、時折荷物を満載したトラックが砂埃を舞い上げながら走り去る。
途中、駱駝に乗り市場に行くのであろう現地人と遭遇する。まるで映画のエキストラのような登場であった。
テレビでみた光景が我々の目の前にある。駱駝は、日本のバイクに驚きもしない。人間のほうが驚いていたように感じた。
昼近くになると、砂漠地帯は40度近い灼熱の世界となる。見渡す限りゴビが広がり地平線がゆらいでいる。
直線が続くシルクロードの先には、逃げ水が現れては消えることの繰り返しである。
休憩は、招待所と呼ばれる簡易宿泊施設に立ち寄る。招待所のある小さな集落にゆっくりとしたペースで走り進むと、子どもたちがどこからともなく集まってくる。子どもたちは、得体の知れない一行に恐るおそる近寄り好奇の目を向ける。
子どもたちに混じり、犬たちも近づいてくる。前もって、野犬は狂犬病の恐れがあるので絶対近づかないことと教わっていたので、緊張せざるを得ない。  (第4話に続く)
<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之  写真:鈴木 雅雄>

 
嘉峪関は、西域との出入り口に作られた大きく堅牢な要塞


silk5-3-3.jpgのサムネール画像 
市内で行商からトマトを買った。ほろ苦い素朴な味だったと記憶している。

 
黄色いもやに包まれた市内を走る。これが黄砂ではなかったのだろうか。その頃日本には黄砂という言葉はなかった。

silk5-3-5.jpg 
中国4大石窟の一つ。敦煌の25キロ南に位置し4世紀から14世紀にかけて、約1,000もの石窟が作られたという。

2010年4月2日金曜日

J'sGalley
シルクロードでシルクロードを走る 〜 第2話

Silk-2-1-1.jpg
中国(中華人民共和国)は、ジュネーブ交通条約に未加盟のため国際免許は使用できない。そこで
蘭州で筆記試験を受けることになった。

「シルクロードでシルクロードを走る」〜どこまで追えるか、夢〜(第2話) 
この調査隊に準備されたのは、発売間もない「シルクロード」をメインに、同じくトレッキングバイクとして発売された「イーハトーブ」が加わった。中国側と、バイクの輸送ルートや走行ルートなどの様々な交渉を経て、目的地のシルクロードを目指す調査の旅が始まった。 

目指すは、バイクツーリングのスタート地点とされる甘粛省の酒泉(しゅせん)である。我々一行は、空路で北京、西安、蘭州を経由し、それぞれの都市では大歓迎を受ける。中国側があらかじめ準備していたスケジュールは、シルクロードツーリングと関係の無い観光地めぐりであった。中国の文化を知ることも重要であるが、ツーリングのスタートまでに約一週間を要した。 

移動の行程で我々は中国の免許試験を受けると言う、予定に無いイベントを乗り切らなければならなかった。 

国際免許証を発行していない中国で、外国人が運転するためには試験に合格しなければならず、用意された日本語訳の試験勉強をするはめになった。筆記試験のみであるが、設問の大半が「免許証を取得する国家的な意義」というものであった。晴れて免許に合格した後は、免許証に貼る写真撮影でも驚いた。カメラマンの指示はカメラ目線ではなく、左の上方に顔を向けよ。と言うものであった。何故そうするのかと問うと、その方が良く写るのだとか。 

我々は、工業都市蘭洲から鉄路にて酒泉を目指す。大陸を横断する蒸気機関車である。一昼夜をかけてようやく酒泉に到着。いよいよシルクロード調査ツーリングの始まりである。日本から船と陸路で送られてきたシルクロードとイーハトーブに、工具、スペアパーツなどを確認し整備にとりかかる。体育学校の片隅を借りて整備されたシルクロードを運動場で試走させる。中国のガソリンは、色が赤くオクタン価は低そうだが、エンジンは快調に回る。

(第3話に続く)  

<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄> 

Silk-2-2-1.jpg
酒泉から数時間走ったあたりの30年前のシルクロード。ラクダがのんびり歩いている空間があった。 

Silk-2-3-1.jpg
敦煌から南西に70キロほどにある陽関。かつての砦あとにある狼煙台から西方を見る。ゴビ砂漠が遥か
彼方まで続いている。
Silk-2-4-1.jpg
8月の灼熱の中、移動途中で出会ったオアシスで一息入れる。昔から旅人を癒したに違いない。
Silk-2-5-1.jpg
1981年4月に発売された125ccのトレッキングバイク「ホンダイーハトーブ」1973年に発売されたバイ
アルスの再来だ。

2010年4月1日木曜日

J'sGalley
シルクロードでシルクロードを走る 〜 第1話

silk2-13.jpg

当時、'60年代に発売されたCL72の再来といわれたシルクロード。250cc単気筒のエンジンは、CL72より低中速に
粘りがあり悪路での走破性は優れていた。  

「シルクロードでシルクロードを走る」〜どこまで追えるか、夢〜(第1話)
1981年3月、250cc単気筒エンジンを搭載した「シルクロード」が発売された。トレッキング・バイクという新たなカテゴリーを築こうという、意欲的な製品として誕生した。
このシルクロードを大々的にPRするための企画が本田技研工業(以下、Honda)で進められていた。通称「シルクロード調査隊」である。この調査隊の目的は大きく二つ。
シルクロードの宣伝・広報活動と、日本のバイクファンに中国のシルクロードをバイクで走る「夢のツーリング」企画の提供であった。当時は、NHKテレビでシルクロードのドキュメンタリー番組が大ヒットになった直後であり、シルクロードという言葉には、日本国民の大多数が大きなロマンを感じていた頃である。
「シルクロードでシルクロード」を走る、という単純な企画であるが、文化の違う中国と協同ですすめていくことは、大変多くの国難が待ち受けていた。
この企画のために編成されたのは、まずはHondaでは、販売促進部、広報部、本田技術研究所、モーターレクリエーション推進本部から私、高山を含めた5名。
報道関係者として同行していただいたのは、二輪専門誌代表としてライダースクラブから万沢康夫氏、新聞媒体、一般誌から3名がライダーの役割を担っていただいた。カメラマンは、鈴木雅雄氏とさらに1名。そして、記録映像スタッフとして、TBS映画社から数名が参加した。
日本側スタッフは、総勢約15名の編成だが、迎える中国側は、ライダー3名に通訳や政府関係者などを含めると、時には20名にもなるほどの大部隊であった。
当時の中国は、外国人が旅行をすること自体異常な事態であり、我々のように「文明の利器」を携えての旅行は前代未聞といってよい出来事であった。           (第2話に続く)

<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄>

ここは、北京の北西約80キロにある八達嶺で、明の時代に改修されたといわれる。
これが約9千キロ西の甘粛省の嘉峪関まで続いている。ユネスコの世界遺産だ。 
バイクでのスタート地点になった酒泉中心部。特別に許可をもらい楼閣の中を抜けていざ敦煌をめざした。日本製のきれいなバイクやウエアーはどこにいっても注目を集めた。

手前はゴビ炭と呼ばれる地質のゴビ砂漠で、砂よりも目が粗く締まっているので走り易い。奥はサラサラした砂のタカラマカン砂漠に続いている。地面の色は含有する鉱物により何色にも染まっている。舗装路を外れるとこのような砂漠が延々と遥か彼方まで続いている。

鈴木 雅雄=二輪四輪の業界では、ジョッパ(JOPPA)という愛称の方が通りが良いフリーランスフォトグラファー。
1947年東京に生まれ、日本大学芸術学部写真学科卒。'70年代の前半からモータースポーツの世界に入り、ロードレース、モトクロスそしてトライアルなどを撮り続ける。
日本レース写真家協会(J.R.P.A.)の会長を18年努め、昨年より副会長。現在、鈴鹿サーキットでレースフォトグラファー体験講座の講師を15年努め、出光イーハトーブトライアルやロシアンラリーなどにオフィシャルカメラとして、第一回目から参加している。
また、二輪業界の有志が30年以上、企画運営している親睦を兼ねた「バイクごっこ」のジャーナリスト・モーターサイクル・ミーティング(J.M.M.)代表。