2010年9月1日水曜日

セロ−って何だろう?

「SEROW250」 25th Anniversary Special。25年を経てセロ−はまだ進化を止めない。
■前夜祭
セローが発売された1985年は、私は関西で営業をやっていた。国内の販売会社で販売店さんにオートバイを卸す、営業である。時代は最新のモノ、スペック性能が一番のモノが尊ばれ、そうじゃないものは軟弱と退けられた時代である。ロードバイクのみならず、オフ車も同様の価値観で、DT200がウイークエンドモトクロッサーってな派手なキャッチコピーで販売され、高販売していた時代である。4サイクルでは当社はXT200があった。しかし、どちらかと言うと地味であまり沢山売れたイメージは無い。
そんな頃、私には東京でカメラマンをしている実の兄がおり、(彼は学生時代TL125バイアルスに乗り、だからと言ってトライアルをするわけでもなくそのバイクを楽しんでいた)そんな兄から連絡が入り、「ヤマハに勤めているのだからXT200を売って欲しい」と言うが連絡が入った。ちなみに、彼は今トリッカーに乗っている!そこが実に彼らしい。その次期の私には、そうした逆行した価値観が理解できなかったが、本社のオフロード開発者も同様の疑問と可能性を考えていた様である。
後日聞くと、DTを買う層とXTの層には大きな隔たりがあり、XTの人はその楽しみ方も多種多様で どちらかと言うと自然派の人で、DTの様な速さを求める競技志向とは異なっていた様である。
■転勤
1996年、私は長年の夢である、"自分でMCを作る"と言う想いが叶い、本社のある静岡県磐田市に転勤して来た。部門は商品企画部でこの部署で内外のMCやスクーターなど全ての二輪車が企画され、開発進捗を行っている。長年に渡り転属願いを出し、それがようやく実ったのである。
当初は国内向けのロードバイクを担当し、レプリカ時代の激戦を泳いでいたが、その後ローテンションでオフ車担当となった。今はかなり人も増えているが、その当時は担当者も少なく、何でも一人でこなした。オフ車と言っても、欧州のテネレから北米YZ中南米のDTなど全世界のモデルを一気に担当するようになった。ライディングもスーパースポーツでハングオンばかしていたレベルであったが、トライアルも担当し、優れた師匠にも恵まれ、走りの幅が広がっていった。
■ 出会い
そんな時、当時の上司にセローの育成を命じられた。育成を担当していた若手が技術に移動する事となり、"その後をやれ"と言う事である。しかも"現状の倍売れるモデルに育てる事を考えろ"てな無茶ブリである。確かにその当時の"レプリカ全盛時代"に、人に優しく、自然にもやさしいコンセプトは異質であり、熱血漢のプロジェクトリーダーのオフへの造詣の深さを感じさせるモデルであったが、販売は数年が経過しやや低迷気味であった。
そこで、オフ車初のセル始動の機能付加となったのはご存知の通りであるが、このセルモーターと大型化するバッテリーへの技術の最初の抵抗は凄まじかった。「ちゃんとしたライダーなら、エンジン始動は、乗る前だけ。そんな邪魔なモノの為に、数kgも重くなる事は許されない」と言うのが、皆の一貫した言い分であった。
その為、試作車をこしらえ、いかにセル付きが重くて駄目なのかを実証されようとした。が、これらが結局セル付き優位論を構築させる結果となった。テストするのは皆プロライダーとは限らないし、第一プロでも失敗はするものである。反対派は消せないが、セル付き賛成派が増えていったのである。
勿論、セルだけではなく、ユーザー目線からの困っている点を一つずつ解消していく事も行われた。タンク容量アップ、タンクキャップとコックの回し易さ、etc。これはその後のモデル育成にその考え方や、やり方は継承されて行く。
カラーリングも当時珍しかった女性デザイナーの起用と、従来の戦闘的なオフ車のイメージでは無かった濃紺とピンクのストライプのコンビネーションなど、新たなアプローチを多方面で行った。結果は本当に上司のオーダー通り前年の丁度倍の販売台数となり、DTと合わせ、オフのヤマハとして新たな世界を提供出来た結果と思う。
<文:ヤマハ発動機株式会社 MC商品企画部 牧野 浩>

J'sGallery
進化という改良を続けてきた ヤマハセロー

テキサス州エルパソの街角のサルーン。西部劇時代には無かったネオンサインと機械馬。それにしてもハーレーはこの雰囲気にマッチしている。
今年で発売25周年を迎えた「ヤマハセロー」。1985年の初夏、奥浜名湖に面したホテルの一室で行われた新車発表会は、それまでになかった雰囲気に包まれた。いきなりスクリーンに映し出された映像は、開発中のセロー225の転倒シーンだった。「我々は転倒しても壊れにくいバイクを目指しました」「二輪二足で自然の奥深いところまでたどり着けるようシート高は低くして、操作性を高めたマウンテントレイルバイクです」。

それまでのマルチパーパス、デュアルパーパスと呼ばれたトレールバイクは、高い走破性を求めて大径タイヤを採用、それゆえの高いシート高。交差点では隣のクルマの屋根を見下ろせる車体サイズ。十分すぎるハイパワーを備えていたので、それなりの腕のライダーにとって、オフロードや林道ではたまらない開放感を味わえた。一方、女性や腕に覚えのないライダーは持て余してしまい、トレールバイクならではの楽しさを味わえるシーンは少なく、もっぱら通勤や通学時などの舗装道路での走行で、その尖った性能と雰囲気を楽しむのがせいぜいだった。
ニューメキシコ州の山間で、偶然出会った大きなレインボー。

そのような中で登場したセロー225は、適度な車体サイズ、低いシート高、51度とトライアル車並のハンドル切れ角などを備え、小柄な人や未舗装路などオフ経験の少ないライダーには、うってつけのトレールバイクだった。口の悪い人からは「女バイク」「初心者バイク」などと揶揄された事もあった。何でもそれゆけの時代だったのだ。
発売してから幾度となくマイナーチェンジが行われてきたが、そのどれもが進化という名の改良だった。派手な変更よりも、細部を煮詰める小さな進化をさせる事に、開発者は努力してきた。裏を返せば思うように開発費をかけられなかったからこそ、アイデアと信念で取り組んできたのだ。とはいえその中で最も大きな進化は、トレールバイクへの国内初のセルスターター装備だろう。これには社内でも異論があったという。当時は今とは異なり、バイクに乗るにはまずエンジンがかけられなくては、という風潮さえあった時代だ。
ライダーなら、一度は走ってみたいどこまでも続く一本道。それも地形に沿ってアツプダウンがあればなおさらだ。
これぞ馬と機械馬の共存だ。低く抑えられた排気音に野生の馬も逃げようとしない
スーパーローギアと、低いシート高ゆえ、ガレバでも快適に走破する事が出来る。

今回ここに掲載する写真は、セローワールドを求めて米国をツーリングした時のものだ。本来トライアル指向の強い我々は、このセロー225で米国をツーリングしたいという、素朴な発想から企画を男性週刊誌に持ち込み実現した。
1985年8月初旬、カリフォルニア州のロサンゼルスから、三台のセロー225をトラックに積み込んで出発した。当時日本でも発売されたばかりで、まだ米国では発売されていなかった。その後アリゾナ州、ニューメキシコ州そしてテキサス州と進みながら、これぞセローワールドという場所でバイクを下ろしてツーリングを楽しんだ。
アリゾナのトゥームストーンではOK牧場の前で撮影していると、パトカーの職務質問を受けた。何かと思えば「見た事が無いバイクだがどこのバイクか」というものだった。乗ってみるかと聞くと「NO」。テキサスのエルパソでは、その昔馬をサルーンの前につないで一日の疲れを癒した気分を現代の機械馬で味わってみた。
<撮影・文/鈴木雅雄JOPPA >

「セロ−って何だろう?」
■セローとは。「二足ニ輪」で、他人と競わず、自分の技術でチャレンジする。時には失敗もするが、友人達の支えで やり切れる 獣道御用達マシン ではあるが、小柄な女性でも足が着き 取り回しも軽く、51度のハンドル切れ角で、渋滞路もすいすい走れる。クラッチやブレーキなど操作系も軽く、燃費も非常に優れ、北海道ツーリングにも沢山の活躍するセローを見れた。当然公道走行は快適だが、トライアル的走りができる多彩なマルチの能力を見せてくれる。でもお値段もいつの時代もリーズナブル。悪戯に材料置換の軽量化や高価格化を嫌い、正攻法で、ユーザーの困っている事を、身の丈にあった手法で解決に取り組んで熟成させて来た。それがセローかと思う。<ヤマハ発動機株式会社MC商品企画部 牧野 浩> 


ガソリンスタンドと郵便局、それに雑貨まで扱っているテキサスの田舎の萬屋。旅をしている実感にどっぷり。
カリフォルニアにある有名なサンドパーク。休日ともなるとあらゆるOFF系乗りものが集まってくる。
映画でも有名な「OK牧場」の馬寄せに、機械馬を停めてその昔を想像してみる。
これもニューメキシコ州の、とある山間で見つけたセローワールド。
テキサスには高さは5M以上、太さは一抱えもあるサボテンが道路わきに群生している。
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