2011年4月5日火曜日

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Bike Trekking

この年は、バイク用に開放されていたトレールを走る一行。
1980年台の始めから、各地で林道や獣道、不整地などをバイクで走る遊びが広まってきた。いわゆるトレールラン、バイクトレッキングといわれるものだ。
それまでオフロードバイクというと、車両ナンバーの無いモトクロス用のバイクが主流であった。ところがこのトレールランに使われたバイクは、林道走行もする事から車両ナンバー、つまり正規の車両登録をしたバイクで、国内二輪メーカーは競って新型トレールバイクを発表した。
それまでは、トランポ(車両運搬車)に積んで、モトクロス場や河原などに特設されたコースまで運び使用していたが、ナンバーが付いたことで目的地まで自走ができた。この移動こそがツーリングで、一台のバイクでオン・オフの両方が楽しめる事から、デュアルパーパスバイクや、マルチパーパスとも呼ばれていた。バイクの後部にテントやシュラフを積んで、仲間やあるいは単独でツーリングキャンプを楽しむ姿が各地で見られた。その流れはその後90年代に大流行したアウトドアブームの先駆けとなった。
走破性(不整地などの)を重視したバイクが主流だった時代から、85年のヤマハセローの発売を契機に取り回し性を求める動きが主流になってきた。いわゆるマウンテントレールの出現になる。同じ頃トライアル競技の盛んなヨーロッパのバイクメーカー(ファンティク、SWM、ベータ、他)のトライアルバイクが、各インポーターから販売され、その勢いが増した。その頃にはイーハトーブ・トライアルが火付け役となったツーリングトライアル競技が、全国で開催されるようになった。
今回は、そのような時代背景の中、米国・ワシントン州で取材した際の写真です。国内では、河川敷でのモトクロスバイクが、河川敷に済む野鳥に害を及ぼすといった記事が新聞に掲載されたり、富士山を始め各地の山麓や林道で、バイクやオフロード四駆による自然破壊が問題になりだした頃だった。
バイク愛好家にすればどこでバイクを楽しめば良いのかという声に対し、林道の管理者にすれば林道は木材の搬出のための道で一般車は乗り入れ禁止だと主張した。中にはバイクの身軽さゆえゲートを越えた事例や、四駆の転落事故もあったという。
それならばアウトドアスポーツ先進国の米国では、どのようにトレールランやオフロードランを楽しんでいるのだろうというのが、取材の目的だった。
一口にアウトドアスポーツというが、乗馬、マウンテンバイク、トレールウオーキング、キャンプ、四駆自動車そしてトレールバイクと多くの愛好家が週末を楽しんでいる米国。
彼らがアウトドアスポーツを楽しむフィールドは、日本語では国立公園、英語ではナショナルパークがその大部分を占めていた。国が管理している広大な土地。その広大な土地をそれぞれの愛好家がパークレインジャーの指導で、年ごとに区域を分けて共存しともに楽しんでいる。しかも自然回復のため、いっさいの立ち入りを禁止する期間を設けたり、施設のメンテナンスなどボランティア活動も活発だった。
驚いたのはほとんどの愛好家は、いずれかのクラブに加入しているので、決まり事を知らなかったということはまず無いということだ。
国立公園は、国のもの。おいそれと自由に振る舞ってはいけないというのではなく、国民の福利厚生のため秩序を保つことを前提に、自然とふれあう場として活用したいものだ。次回は、パークレンジャーなどの活動や安全に楽しむためのアイデアを紹介しよう。
ところで、今回の東日本大震災でボランティ活動をしているJOMSは、阪神大震災の際に関西在住のバイク愛好家により発足した医療チーム。四輪車では入れない場所やがれきをバイクで乗り越えて、困っている人を助けたいというのが趣旨です。
<撮影・文/鈴木雅雄JOPPA>

トレールのわきには、花が咲き心が洗われる。来年はどの愛好家がこの景色を楽しむのだろう。

ピークにさしかかると、風が強いのか草花は無い。それだけにスケールの大きさを感じる

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いくつもの尾根を越え、たどり着いたのは大きな一枚岩で360°の視界が待っていた。バイクはマウンテントレール用だ。

目的地でのひと時を楽しむメンバー。

手入れの良いバイクも、トラブルはある。マウンテントレールには、いざという時の為に十分な工具と技量はマストだ。

一日が終わり、帰路に付く前に顔のホコリをとりリフレッシュ。

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2010年10月22日金曜日

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車輪の進化

開拓時代の馬車用の車輪、次の写真の車輪よりもかなり細いので小型の馬車か?
重いモノを動かすために考案されたコロは、人類最初の道具の一つだといわれる。その後、長い年月をかけて工夫され進化してきたのが今日の車輪(ホイール)だ。今回1980年代に米国で撮影した、開拓時代から20世紀半ばまでの各種車輪をお見せします。
開拓時代のいわゆる幌馬車に使われていた車輪は、硬いカシの木を組み合わせたものに鉄の輪を外側にはめたものが主流だった。当時扱いやすく加工しやすい素材で、木をしのぐものが無かったからだといわれている。また金属は高価で重い事が使われなかった理由だろう。
その後19世紀の半ば頃になると、木製の車輪の周りにソリッドゴムをはめたものが登場した。ソリッドゴム装着のタイヤの誕生になる。ちなみに当時のダイムラーの四輪車にもこの馬車用の車輪が使われていたそうだ。
今日の空気入りのタイヤの基礎は、1888年イギリスのダンロップが考案したもので、息子の自転車用だった。その後フランスのミシュラン兄弟の改良などの経て、空気入りタイヤ用の鉄製リムが登場する。この鉄製リムに対応するようにスポークも鉄製のものが生まれてはいるが、20世紀初頭には木製のスポークに鉄にリム、そしてソリッドゴムが主流だったようだ。
木製のスポークの素材も、当初のカシからオーク、さらにより硬いヒッコリーが使われるようになった。ちなみに1908年に発売された有名なT型フォードには、木製スポークに鉄製リム。そして空気入りタイヤが装着されていた。この頃のタイヤにはトレッド面に溝が掘られていたが、これは19世紀の終わり頃に開発されたものだ。

 それでは今日では当たり前になっている鉄製の車輪は、いつ頃登場したのだろうか。オールスチールの車輪は、1908年にイギリスのJ.サンキューが開発している。当時の車輪は今日のものとは異なり、単純な鋼板のプレス成形だった。
20世初頭には車が富の象徴となり、それまでの実用車から高級車指向へと移っていく。車輪(ホイール)も機能部品から高級感やデザインの美しさが求められるようになり,そこで生まれたのがワイヤースポークのセンターロック式車輪だった。
ここまでを整理すると、1920 年代は木製スポーク付き車輪とスチールディスク、それにスチールワイヤースポークの車輪が混在していた。そして30年代に入りスチールホイールが木製車輪と入れ変わっていった。また素材や細工の違いから、低コストのスチール製は一般乗用車に使われ、高価なワイヤースポークはスポーツカーや高級車に使われるようになった。
その後20世紀半ばになり、アルミ素材で作られた車輪を装着したジャガーDタイプがレースで圧倒的な存在になった。ちなみに日本におけるアルミホイールの誕生は、1966年遠州軽金属(エンケイ)が製作を開始し翌67年から販売を開始している。
参考資料:日本自動車用品・部品アフターマーケット振興会/JAWA事業部資料
<撮影・文/鈴木雅雄JOPPA>

大型サイズの馬車だったと思われる巾の広い、そして分厚い鉄を巻いた車輪を付けている。
馬車用にしてはサイズが小さい。自動車用の車輪か。木のスポークに鉄のリムを付けている。タイヤはソリッド。
スチール製のプレスホイール。いわゆるリアカー(小型の荷物運搬車)に付けられていた。
鉄を使った鋳造ホイールとソリッドタイヤの組み合わせ。
素材はアルミと思われるが、型に流し込んで作られた車輪。
1930 年代のトラック。禁酒法時代の車だろう。
この頃のタイヤにはトレッド面には溝が掘られている。
5本のスタッドボルトで固定されていたワイヤースポークの車輪。タイヤのパターンも今に通じるものがある。
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2010年10月15日金曜日

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オージー弾丸ツーリング。エアーズロックを目指して 〜 第3話


マウントオルガは、エアーズロックから約30キロ離れているが、地下ではつながっているという。それにしてもこの土の色に驚いた。

アリススプリングスを出発し、ほどなく行くとエアーズロックはもう見えてくる。しかし、1時間走っても余り近づいた感じがしない。えー?見えてるのにかなりの距離があるのだ。それほど視界が良いと言うか、空気は澄んでいて障害物も何も無い。
いよいよ間近まで来ると、その大きさに圧倒される。これが1個の岩とは到底思えな
い大きさだ。高さは335m、東京タワーとほぼ同じ。う〜ん自然のパワーを感じ
る。
実はこのエアーズロック(正確な名前はウルル)、原住民アボリジニの聖地となって
おり、儀式のある時、風が強い時、雨の時は登山禁止だ。しかし2011年10月に登山完全禁止とする政府からの正式発表がされていて、登りたいなら早めに行かなくてはならない。
我々の行った1988年は問題無く登れた。登り始めは急坂でクサリを持ちながら登る。
ある程度登ると、溝を登ったり降りたりしながら進むと頂上だ!回りには何も無いので眺めは最高!感激と感動に包まれたことを思い出す。
ここで私が考えていたのは、表面はザラザラした岩でグリップは抜群、斜面の角度や段差などトライアル車なら登れる、頂上付近は緩やかな斜面で広い。端の方は段々と角度がきつくなる。つまりトライアル車でエアーズロックを登り、頂上からパラグライダーで飛んで降りるというちょっとした冒険が出来るなー!とのん気な事を思っていたのである。勿論そんな申請は通るはずもなく、そんな事をしたらアボリジニに殺されても文句は言えないのだが。
さて、本題に戻ろう。エアーズロックの頂上から西に見えている山々がある。これが
約32キロ離れた場所にあるマウントオルガだ。36の岩山が集まっているのだが、実は地下でエアーズロックと繋がっているのが解っている。地殻が侵食によって出て来たのがエアーズロックとマウントオルガなのだ。
ちなみにエアーズロックは地殻全体の僅か5%が出ているだけだという。さてマウン
トオルガに行ってみると、エアーズロックのようにポコンとひとつあるのと違い、山々
の間には湖があったり深い谷があったりと様相がまるで違う。エアーズロックよりも
規模が大きいので、見られるのは一部である。ただし、ここの谷は「風の谷のナウシ
カ」のモデルとなった場所として有名だ。
それにしても地球の雄大さと不思議さには想像を掻き立てられる。エアーズロックと
マウントオルガが繋がっているなんて信じがたいし、どうしてこの2個だけが侵食に
よって出て来たのか、朝焼け夕焼けの赤、そしてこの地域の砂漠の砂も赤、なぜ、こんなに赤いのかも判っているようでよくよく考えると何も判らない。
オーストラリアのごく一部でしかないこの場所だけど、一生懸命自分で走って来たという満足感、そして雄大さを実感して感動。また自分を洗い直すためにも再び訪れてみたいものだ。
その後、北へ約160キロにあるキングスキャニオンへ。地殻変動によって生まれた渓
谷が続く。ここは木々も実り水もあり、場所によっては日本の森に居るような感じ。
しかし、見晴らしの良い場所ではスケールの違いとその岩の造形によって、やはり日
本とは規模が違うと思うのだ。

今回の相棒はXT600であったが、オーストラリアでのツーリングにはこの様なオ
フ系ツアラーが最適だと思う。ハイウェイしか走らないならオンロード車でもいいけ
ど、ちょっとでも冒険心があるなら嫌でもダートやぬかるみを走ることになる。やは
りオフ車でないと厳しいのだ。XT600は思っていたより振動も少なく、ポジショ
ンは大柄だけど楽チンで乗り心地も良かったと記憶している。
大きなトラブルも無く、無事に取材は終了。ここでバイクや現地スタッフと別れ、ア
リススプリングスから国内線でシドニーへ。が!乗る予定の機体にエンジントラブル
が見つかったとのことで、空港で待たされる羽目に。大丈夫かいな〜?と思いつつ、
代替の機体があるわけでもなく、修理が終わるまで待つしかない。まー結果的には無
事にシドニーに到着したのでよいけど、最後にドキドキさせられた。
ドタバタした取材であったものの(まー取材なんて時間的余裕がある方が稀だけ
ど)、楽しく良い経験をさせてもらった。もう23年も前の事ではあるが、改めてヤマハ発動機、オーストラリアヤマハ、案内役の警察官、トレーラーで同行したヤマハスタッフ、そしてカメラマンのジョッパさん、その当時のバイク雑誌関係者、みんなに感謝です。

<文/ジッタ 撮影/鈴木雅雄JOPPA>
早朝、太陽がまだ高くない頃が見頃と聞いて夜明けとともにロックに出かけた。その帰り道、あまりに感動したのかjittaはウイリーやら曲芸まがいの走りを見せた。
一枚岩で出来ているエアーズロックは、見る位置によりその形は微妙に違っている。このポイントが道路と最も接近している。
エアーズロックの頂上の様子。余りに風が強いので、観光客も思わず座ってしまうほど。方位を表した記念碑にある赤い登頂記念のノートは、今でもあるのだろうか。
トライアルブーツでいざ頂上へ!一枚岩だけにグリップはしっかりしていて、急な斜面では鎖がサポートしてくれる
マウントオルガの麓をトレッキングするが、ごつごつした岩場で走りにくかった。これからしばらく離れるとまっ茶色の土が現れる。
夕日に包まれ、今回の3日間の弾丸ツーリングも終わりに近づいた。この瞬間包まれている夕日の色は、あの土の色と同じだった
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2010年10月8日金曜日

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オージー弾丸ツーリング。エアーズロックを目指して 〜 第2話

道路だけでなくレールも、見える範囲はどこまでもまっすぐに伸びている
そして、2日目の宿となるクーパーペディに到着。昨日も今日も12時間は走ってる。まぁ1日の走行距離は約1000キロになるし、撮影しながらなのでこれくらいはかかるという訳だ。
このクーパーペディは、オパールの産地として栄えた街。そこらじゅうにオパールを掘った穴や山がある。一攫千金を狙った人々が今でも大勢集まっているのだ。そして泊まったホテルは「アンダーグラウンドホテル」と言って、その名の通り地下にある。
オパールを掘った穴がそのままホテルとなっているのだ。何とも豪快なホテルだが、夏は涼しく冬は暖かい。他にも普通のホテルもあるが、クーパーペディで泊まるならこのホテルが絶対にお勧めだ。
夜は近くのバーへ。食事は美味しかったが酒は何を飲まされたのか良く覚えていないのだが、強烈な味で参ったのは覚えている。何だったのだろう?そんなでぐっすりと寝てしまった。
あくる朝、警察官の乗るXTがパンクしていたので直す。チューブの虫金を入れるのを苦労していたので、タイヤレバーでリム穴が出るようにめくるやり方を教えたら感心された。
出発してからは、ず〜っと120キロで走るが、やっぱり景色は変わらずで段々緊張感は無くなってしまう。と、そんな頃だったと思うが、フリーウェイから外れてダートを走ろう!となった。
おー!こりゃ願ってもない気分転換だ!ダートといってもほぼフラットに慣らされていて、小さなコーナーもない。結局同じ120キロ走行で突っ走る!さすがに最初は緊張していたし、この速度でコケたらダートとはいえ痛いだろうなーなどと考える。
でも、やっぱり慣れてしまうのだ。そうすると日本では絶対に経験出来ないダートをこの速度で長時間走る事が快感に覚えてくる。オーストラリアならではの楽しい経験をさせてもらった。しかし、そんなダートにも酔っ払い運転のアボリジニは居たから要注意だ!
途中、干上がった湖(なぜか真っ白なのだが、これは塩だった。昔は海だったのだ)や小高い丘などで撮影しながら進む。そうだ、フリーウェイには所々に動物が移動しないようにするレールを横に敷き詰めたような逃げの穴がある。そこは斜めに進入すると滑るのでこれも要注意だ。
ちょっと記憶が定かではないのだが、確かアリススプリングスに到着してレストランに行った時のこと。いや途中の小さなレストランでも同じだったと思うが、せっかくのオーストラリア、メニューに必ず載っているカンガルーミートを喰おうとなる。が、なぜか今はカンガルーミートは無いんだ!という返事ばかり。
えーだってそこらじゅうにカンガルー居るし、死んでるじゃん?何で無いの?となるのだけど、結局帰国までカンガルーは食えなかったのだ。残念・・・。
そう、随行しているヤマハのスタッフと警察官、とにかく食事には時間をかけるし、我々日本人には何でもトライしろ!と物凄くたくさんのメニューを注文する。いや〜残したらもったいないからいいですよーと言っても、とにかくトライ!なのだ。毎日こんな食事なので、喰い過ぎで大変だった。

アクシデントと言うほどでもないけど、ノーザンテリトリーに入ってから何と速度違反で捕まったことがある。えーやっぱりこの速度は違反なんだーと思ったが、そこは現役警察官が案内役。警官同士で話しをして無罪放免。いいのかこれで!
そんなこんなで無事に3日間でエアーズロックに一番近いアリススプリングスに到着し、いよいよ明日はエアーズロックに行くのだ!(第3話に続く)
<文/ジッタ 撮影/鈴木雅雄JOPPA>

舗装道路を離れダート走りを楽しんだ。これで時速120キロは出ている。怖いのは、わきから出てくる牛や酔っぱらい運転の車だ


冬とはいえオフロード好きは、水を見るとついつい水しぶきをあげたくなる。


突然真っ白い地面が現れた。その昔は海だったというが不思議な光景だった


見渡す限り、オパールを掘る穴だらけのクーパーペディーの町。街全体がこのような茶色に染まり、ホコリっぽい感じがした。

この日の宿は、オパールを掘った穴を利用したホテルだ。きれいに整備されているので快適な環境だった。

ツインベッドを置いてもこの空間が有る部屋の内部。トイレやシャワールームもあって不自由は無い。冬暖かく、夏は涼しいという。
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2010年10月1日金曜日

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オージー弾丸ツーリング。エアーズロックを目指して 〜 第1話

オーストラリア大陸のほぼ中央部に位置するエアーズロック。大きな一枚岩からなる、先住民族アボリジニ人の聖地。

時は1988年、バブル真っ只中だ。現在ではこんな取材に行かせてくれるところはまず無い。どこに行ったのかと言うとオーストラリアへのツーリング取材だ。とあるバイク誌の取材。日本からは私ことジッタとジョッパカメラマンの2人でいざ出発。
確か8月に行ったので日本は真夏、オーストラリアは真冬だ。一度シドニーに入りそのまま国内線でメルボルンへ。そこで現地ヤマハのスタッフと、ガイド役の現役警察官(何で警察官が?でも心強い!)と合流。使用するマシンはXT600テネレだ。
ツーリング取材とはいえ日程に余裕があるわけではなく、メルボルンから中3日でエアーズロック(約3000キロある)まで行くのだからとてもハード。今なら流行の「弾丸...」なのだが。しかも撮影しながらだから、忙しいのは目に見えている。
初日は朝7時には出発するが、いかんせん真冬なので寒い。でも、オーストラリアは元イギリス領なので左側通行だから、何の違和感もなく走れるので気は楽だ。
取り合えずこの日はアデレードまで。街中から海岸線に沿って北上し、まだ内陸ではないので普通にツーリング気分でルンルンだ。ただし平均速度は速め。でないと到着が真夜中になってしまうのだ。いいのかこんな速度で走っていて!?と思うが、基本、街中以外はフリーウェイなのだ。まして現役警察官が一緒。というか先導が飛ばしているのだからいいのでしょう。と解釈して付いて行くしかないのだが。
初のオーストラリアだし、乗りなれたオフ車だし、そりゃもう新鮮で楽しいったらない。初日はたいした疲れもなくアデレードの宿でスヤスヤ。
さて2日目も朝7時には出発!4〜500キロも走ると、いよいよ内陸となる。周りは赤茶けた砂漠。行けども行けども景色は変わらず、走行速度は120キロ平均と速いが緊張感もだんだん無くなってくる。道はしっかりした舗装なので飽きてしまうのだ。でも、撮影のために時々止まるので、ウイリーしたりと遊んで気分転換!
そうだ、内陸と言えば初日に警察官から注意点を聞いていた。「一番気をつけるのは酔っ払い運転のアボリジニ、次に毒クモ、暗くなったらカンガルーだ!」と。
原住民であるアボリジニは保護されているので、何もしなくてもお金がもらえる。すると昼間から酒を飲んでいる輩もいるというわけ。勿論、真面目に働いているアボリジニがほとんどなのだが。確かにフラフラ運転している車を何台も見かけた。
クモに関しては、結局一度も見る事は無く済んだので良かった。カンガルーは暗くなると、明るい物に向かって行く習性があるので危険なのだ。幸い我々には何も起きなかったものの、フリーウェイの脇には車に跳ねられたカンガルーの死体がたくさん転がっていた。
よく4WD車にカンガルーバーを装着しているが、日本ではほぼ飾り、しかしオーストラリアでは自分を守る実用品であることが判る。
内陸に入るとガソリンスタンドは街にはあるものの、約200〜250キロごとにしかないので、バイクの場合は必ず入れておかないとガス欠になってしまう。(第2話に続く)
<文/ジッタ 撮影/鈴木雅雄JOPPA>

米国、ロシア、中国、それにこのオージー。大きな国土の国には、必ずあるどこまでも続く一本道。始めは感動するものの、そのうち退屈になりコーナーが欲しくなってくる。

まだGPSが無かった頃。分岐点に来ると大きな地図を広げて道を確認した。現地の人でもこれだけの距離を走った事はないそうだ。

カンガルー注意の標識。日本では人気のカンガルーも、ここでは夜間、車のライトめがけて突進してくる事故が多いと聞いた。


国道といえどもアウトバックに入るとサービスステーションの数は少ない。この先5キロのそれを逃すと、その先257キロまで何も無い。もちろん自販機など有るはずも無い。

200キロ以上走り続けてやつとたどり着いたサービスステーション。ガソリンから水、スナック、簡易宿泊設備等アウトバックでのオアシスだ。

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2010年9月1日水曜日

セロ−って何だろう?

「SEROW250」 25th Anniversary Special。25年を経てセロ−はまだ進化を止めない。
■前夜祭
セローが発売された1985年は、私は関西で営業をやっていた。国内の販売会社で販売店さんにオートバイを卸す、営業である。時代は最新のモノ、スペック性能が一番のモノが尊ばれ、そうじゃないものは軟弱と退けられた時代である。ロードバイクのみならず、オフ車も同様の価値観で、DT200がウイークエンドモトクロッサーってな派手なキャッチコピーで販売され、高販売していた時代である。4サイクルでは当社はXT200があった。しかし、どちらかと言うと地味であまり沢山売れたイメージは無い。
そんな頃、私には東京でカメラマンをしている実の兄がおり、(彼は学生時代TL125バイアルスに乗り、だからと言ってトライアルをするわけでもなくそのバイクを楽しんでいた)そんな兄から連絡が入り、「ヤマハに勤めているのだからXT200を売って欲しい」と言うが連絡が入った。ちなみに、彼は今トリッカーに乗っている!そこが実に彼らしい。その次期の私には、そうした逆行した価値観が理解できなかったが、本社のオフロード開発者も同様の疑問と可能性を考えていた様である。
後日聞くと、DTを買う層とXTの層には大きな隔たりがあり、XTの人はその楽しみ方も多種多様で どちらかと言うと自然派の人で、DTの様な速さを求める競技志向とは異なっていた様である。
■転勤
1996年、私は長年の夢である、"自分でMCを作る"と言う想いが叶い、本社のある静岡県磐田市に転勤して来た。部門は商品企画部でこの部署で内外のMCやスクーターなど全ての二輪車が企画され、開発進捗を行っている。長年に渡り転属願いを出し、それがようやく実ったのである。
当初は国内向けのロードバイクを担当し、レプリカ時代の激戦を泳いでいたが、その後ローテンションでオフ車担当となった。今はかなり人も増えているが、その当時は担当者も少なく、何でも一人でこなした。オフ車と言っても、欧州のテネレから北米YZ中南米のDTなど全世界のモデルを一気に担当するようになった。ライディングもスーパースポーツでハングオンばかしていたレベルであったが、トライアルも担当し、優れた師匠にも恵まれ、走りの幅が広がっていった。
■ 出会い
そんな時、当時の上司にセローの育成を命じられた。育成を担当していた若手が技術に移動する事となり、"その後をやれ"と言う事である。しかも"現状の倍売れるモデルに育てる事を考えろ"てな無茶ブリである。確かにその当時の"レプリカ全盛時代"に、人に優しく、自然にもやさしいコンセプトは異質であり、熱血漢のプロジェクトリーダーのオフへの造詣の深さを感じさせるモデルであったが、販売は数年が経過しやや低迷気味であった。
そこで、オフ車初のセル始動の機能付加となったのはご存知の通りであるが、このセルモーターと大型化するバッテリーへの技術の最初の抵抗は凄まじかった。「ちゃんとしたライダーなら、エンジン始動は、乗る前だけ。そんな邪魔なモノの為に、数kgも重くなる事は許されない」と言うのが、皆の一貫した言い分であった。
その為、試作車をこしらえ、いかにセル付きが重くて駄目なのかを実証されようとした。が、これらが結局セル付き優位論を構築させる結果となった。テストするのは皆プロライダーとは限らないし、第一プロでも失敗はするものである。反対派は消せないが、セル付き賛成派が増えていったのである。
勿論、セルだけではなく、ユーザー目線からの困っている点を一つずつ解消していく事も行われた。タンク容量アップ、タンクキャップとコックの回し易さ、etc。これはその後のモデル育成にその考え方や、やり方は継承されて行く。
カラーリングも当時珍しかった女性デザイナーの起用と、従来の戦闘的なオフ車のイメージでは無かった濃紺とピンクのストライプのコンビネーションなど、新たなアプローチを多方面で行った。結果は本当に上司のオーダー通り前年の丁度倍の販売台数となり、DTと合わせ、オフのヤマハとして新たな世界を提供出来た結果と思う。
<文:ヤマハ発動機株式会社 MC商品企画部 牧野 浩>

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進化という改良を続けてきた ヤマハセロー

テキサス州エルパソの街角のサルーン。西部劇時代には無かったネオンサインと機械馬。それにしてもハーレーはこの雰囲気にマッチしている。
今年で発売25周年を迎えた「ヤマハセロー」。1985年の初夏、奥浜名湖に面したホテルの一室で行われた新車発表会は、それまでになかった雰囲気に包まれた。いきなりスクリーンに映し出された映像は、開発中のセロー225の転倒シーンだった。「我々は転倒しても壊れにくいバイクを目指しました」「二輪二足で自然の奥深いところまでたどり着けるようシート高は低くして、操作性を高めたマウンテントレイルバイクです」。

それまでのマルチパーパス、デュアルパーパスと呼ばれたトレールバイクは、高い走破性を求めて大径タイヤを採用、それゆえの高いシート高。交差点では隣のクルマの屋根を見下ろせる車体サイズ。十分すぎるハイパワーを備えていたので、それなりの腕のライダーにとって、オフロードや林道ではたまらない開放感を味わえた。一方、女性や腕に覚えのないライダーは持て余してしまい、トレールバイクならではの楽しさを味わえるシーンは少なく、もっぱら通勤や通学時などの舗装道路での走行で、その尖った性能と雰囲気を楽しむのがせいぜいだった。
ニューメキシコ州の山間で、偶然出会った大きなレインボー。

そのような中で登場したセロー225は、適度な車体サイズ、低いシート高、51度とトライアル車並のハンドル切れ角などを備え、小柄な人や未舗装路などオフ経験の少ないライダーには、うってつけのトレールバイクだった。口の悪い人からは「女バイク」「初心者バイク」などと揶揄された事もあった。何でもそれゆけの時代だったのだ。
発売してから幾度となくマイナーチェンジが行われてきたが、そのどれもが進化という名の改良だった。派手な変更よりも、細部を煮詰める小さな進化をさせる事に、開発者は努力してきた。裏を返せば思うように開発費をかけられなかったからこそ、アイデアと信念で取り組んできたのだ。とはいえその中で最も大きな進化は、トレールバイクへの国内初のセルスターター装備だろう。これには社内でも異論があったという。当時は今とは異なり、バイクに乗るにはまずエンジンがかけられなくては、という風潮さえあった時代だ。
ライダーなら、一度は走ってみたいどこまでも続く一本道。それも地形に沿ってアツプダウンがあればなおさらだ。
これぞ馬と機械馬の共存だ。低く抑えられた排気音に野生の馬も逃げようとしない
スーパーローギアと、低いシート高ゆえ、ガレバでも快適に走破する事が出来る。

今回ここに掲載する写真は、セローワールドを求めて米国をツーリングした時のものだ。本来トライアル指向の強い我々は、このセロー225で米国をツーリングしたいという、素朴な発想から企画を男性週刊誌に持ち込み実現した。
1985年8月初旬、カリフォルニア州のロサンゼルスから、三台のセロー225をトラックに積み込んで出発した。当時日本でも発売されたばかりで、まだ米国では発売されていなかった。その後アリゾナ州、ニューメキシコ州そしてテキサス州と進みながら、これぞセローワールドという場所でバイクを下ろしてツーリングを楽しんだ。
アリゾナのトゥームストーンではOK牧場の前で撮影していると、パトカーの職務質問を受けた。何かと思えば「見た事が無いバイクだがどこのバイクか」というものだった。乗ってみるかと聞くと「NO」。テキサスのエルパソでは、その昔馬をサルーンの前につないで一日の疲れを癒した気分を現代の機械馬で味わってみた。
<撮影・文/鈴木雅雄JOPPA >

「セロ−って何だろう?」
■セローとは。「二足ニ輪」で、他人と競わず、自分の技術でチャレンジする。時には失敗もするが、友人達の支えで やり切れる 獣道御用達マシン ではあるが、小柄な女性でも足が着き 取り回しも軽く、51度のハンドル切れ角で、渋滞路もすいすい走れる。クラッチやブレーキなど操作系も軽く、燃費も非常に優れ、北海道ツーリングにも沢山の活躍するセローを見れた。当然公道走行は快適だが、トライアル的走りができる多彩なマルチの能力を見せてくれる。でもお値段もいつの時代もリーズナブル。悪戯に材料置換の軽量化や高価格化を嫌い、正攻法で、ユーザーの困っている事を、身の丈にあった手法で解決に取り組んで熟成させて来た。それがセローかと思う。<ヤマハ発動機株式会社MC商品企画部 牧野 浩> 


ガソリンスタンドと郵便局、それに雑貨まで扱っているテキサスの田舎の萬屋。旅をしている実感にどっぷり。
カリフォルニアにある有名なサンドパーク。休日ともなるとあらゆるOFF系乗りものが集まってくる。
映画でも有名な「OK牧場」の馬寄せに、機械馬を停めてその昔を想像してみる。
これもニューメキシコ州の、とある山間で見つけたセローワールド。
テキサスには高さは5M以上、太さは一抱えもあるサボテンが道路わきに群生している。
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