2010年5月4日火曜日

'60年代からのトライアル事情と参戦記 〜 田中義耿

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私は昭和22年生まれ、団塊の世代真っ只中です。
お陰様で社会の荒波を乗り越え無事定年退職を迎え、そして休止状態のトライアルを再開し3年が過ぎ様としております。
トライアルを始めて今日まで45年が経ちました。バイクの免許取得年齢が16歳でしたので高校時代に原付1種免許を取得し、バイクで通学もしました。
また、親の職業がら我が家には「原動機付き自転車のBSモーター」が有り、その後は「ヤマハモペットMF1」がありました。この様なバイク環境でしたので自然とバイクに興味を持ちました。
バイクを乗り始めて暫くすぎた頃、スクランブル(モトクロス)でも始めようと私の兄と一緒に近隣にあった「スクランブルクラブ」に入りました。クラブ名は「QQスピードクラブ(QQSC)」です。このクラブに入った時に「トライアル」から始めてはどう、と言う話がありこれがトライアルを始めるきっかけとなりました。
当時は時折MCFAJが主催していたトライアルイベントがありましたが、どの様な競技かは理解していませんでした。
60年代当時の日本のバイクメーカーは「ロードレーサー」「スクランブラー」がレース用バイクの主力商品でしたので、トライアル車は売っていませんでした。そもそも日本のバイクメーカー自身が「トライアル」を詳しく認知していませんでしたので、トライアル車を開発する事に興味を示す状況ではありませんでした。
こんな状況の中から、イギリス、スペイン等のトライアルバイクやセクションとして走る環境の写真を見てトライアルとは何か、から入りました。
トライアルは自然環境の中で、岩の乗り越え、滑りやすい上り下りの斜面、石がゴロゴロしている川の中、小さく回るターン、等、スロットルワークで身体のバランスをとりながら走り、いかに足つき等の減点を少なくし「クリーン」に走りきるかを競う競技です。
これらの自然条件に打ち勝つ為にはトライアル車として「低速でも走れる減速比と粘り強い良いエンジン特性」、「グリップの良いタイヤとサスペンション」、「大きな最低地上高と頑丈なエンジンガード」、「足つき製の良い低いシート高」、「バランスのとりやすいステップ位置」等の機能が求められます。
とは言え学生の身分です。輸入バイクは高価でしたので買えません。すぐに出来る事は今持っているバイクの改造です。
当時の手持ちのバイクは「ホンダスポーツカブC110」でした。そして前後のタイヤをMX用に交換、低速トルクを得る為にリヤースプロケットを「ハンターカブ用の72T」に交換、ハンドルをモトクロス用の幅が広いものに交換しました。そして改造車の運搬車両を持ち合わせていませんでしたので、保安部品を付けたまま、大きな減速比で自走する事になります。
そして初めて出場したトライアル大会はMCFAJ主催の三浦半島衣笠の大会でした。結果はビリです。
やはり出場するからには「勝ちたい」。そこで戦闘力アップのため次なるバイクの改造です。ポンコツに近い中古車を購入し改造しました。トーハツランペット、スズキ80K、CS90、と軽量化も視野に入れ「保安部品の撤去」、フロントフェンダーのアルミ化やリアーフェンダーの小型化、シートの薄肉小型化、ステップ位置の移動、アップマフラー化、ついにはトランスポーターである軽トラック、ポンコツ「スバルサンバー360cc」の購入。と大枚をはたきました。
機動性も手に入れましたので練習にも力が入れられる様になりました。東京多摩川の「拝島」、「関戸橋」、そして「相模川」で練習に励みました。時折開催されるMCFAJの大会でも何とか上位に食い込めるようになりました。
しかし年間を通じてのトライアル大会は少なく、出場人数も10名〜多くて20名の一握りです。もっとトライアルを知ってもらいたいと言う想いで「QQSCトライアル採点会」を開催することにしました。

開催案内をバイク雑誌に投稿し、当日の参加ライダーは約20名ほど集まりました。参加者のバイクはノーマルオフロードバイクで、一部はオンロードバイクでした。セクションを造り、模範走行をし基本となる走り方を教えました。午後からは競技形式で各自の採点をしました。参加者はこれほど走れないものとは思わなかった様で、トライアルって易しくないんだと感じたようです。しかし走る難しさはありましたが楽しさを感じてくれたようでもありました。

この「QQSCトライアル採点会」開催のおかげでクラブへの入会を希望する人が3、4名いましたし、その後も会員が増えていきました。今現在でもこの中でトライアル活動を続けているメンバーが半数以上います。
更には「QQSCトライアル大会」と名打ってシリーズ戦を開催しました。出場者は約20名ほどでしたが、多いい時には50名位集まり大会規模も大きくなって来ました。参加者のバイクの改造もレベルが高くなり、それにつれてセクションもレベルアップしてきました。
主な出場改造バイクはC2SS、DT−1、SL90、125、といったオフロードバイクがベース車として使われる様になりました。
SL90を例にとると、今までの改造範囲に比べ、最低地上高を更に高くする事と、走破性の向上が必要になったため、スポークを組み替えフロントタイヤを19インチから2.75−21インチへ、リヤータイヤを17インチから4.00−18インチに変更しました。タイヤサイズ変更に伴い前後フェンダーをアルミで叩き出し作成しました。低速トルクアップのためエキゾーストパイプを長くし取り回しも変更しマフラーの容量も変更しました。
これらの改造により更にハードなセクショントライが可能となり、結果としてトライアル大会での成績も上位に入賞出来るようになりました。
「QQSCトライアル大会」の規模が大きくなるにしたがい、情熱を盛ったトライアルクラブの参加も増え、トライアルを更に盛んにする為に幅広くトライアル参加者を求めるイベントとして「関東トライアル大会」、通称「関トラ」を創設し「QQSC」と「CRTC」の交互共催で進める事になりました。
「関トラ」開催場所も「CRTC」の熱意により新たに捜し出した、神奈川県宮が瀬の「早戸川」が主体会場となりました。
「拝島」時代とは違い山の中の本格的なトライアル会場となりましたので、トライアル車に求められる性能もより高く、同様にライダーの技量が試される場ともなりました。岩のステアケースは更に高く、山の斜面の上りは更に急に、登りの助走は更に短く、ターンもきつくなり、といった具合に大きく変わりました。
トライアル車の性能もエンジンパワーが求められるようになり、SL90の場合はエンジン排気量も90ccから125ccへ、更には145ccへと拡大し、馬力とトルクアップを図りました。燃料タンクも軽量化のため樹脂製の小型の物に変えました。動きも瞬間的な速さが求められ、姿勢変化も大きくなる事からスロットルを開けたときに息つきが出たりします。そのガソリンの途切れ対策としてキャブレターのメインジェットには比較的目の粗い「スポンジを巻いて」ガソリンだまりを設けました。マシーンはパワフルになり戦闘力も上がり「関トラ」の上位を維持するまでになりました。
「関トラ」も定着し参加者も増え、全国各地でもクラブ単位でトライアルが開催される様になっていました。
日本の4メーカーの動きも始まり関係者の視察や出場があり「トライアル車の開発」が視野に入ってきました。そして1973年1月に「ホンダTL125」が発表され発売となりトライアルブームの始まりです。
また、こうした中、「QQSC」「CRTC」「TRC」「RBTC」、等、主力クラブで将来のトライアル運営を話し合い、「MFJ」も巻き込んでこの年の11月に「第1回全日本トライアル選手権」が開催され、また、MFJ公認「各地区選手権大会」も開催されようになりました。こうして、日本に今日のトライアルが定着する事となりました。
<文:田中 義耿 写真:鈴木 雅雄>

注:文中のクラブ名の由来は以下。QQSC(キューキュー スピード クラブ)会長:田中英生。学生が主体でしたので金欠状態でPP(ピーピー)していた。PPでは格好悪いのでQQとなった。(何故スピードなのか。その後QQSCにトライアルクラブを付け加えた。通称はQQSC)
CRTC(クリーン ライダース トライアル クラブ)会長:万沢安夫。トライアルの「減点0」は「クリーン」と言います。セクションをクリーンで走りきりたい思いをクラブ名に取り入れた。
TRC(トライアルス ライディング クラブ)会長:箕輪冬樹。QQSCから分離独立しTRCを立ち上げる。2代目会長は上原保男。初代MFJトライアル委員長。本人は「QQSCトライアル大会」に出場。ベルスタッフのトライアルスーツを着てトライアルライディングに徹していた。
RBTC(ロック バッシャーズ トライアル クラブ)会長:故石塚英次。岩をも砕く勢いでトライアルに情熱を燃やすクラブ。イギリス、スペイン、等、海外の情報をいち早く入手していた海外通のクラブ。
著者略歴:田中 義耿(タナカ ヨシアキ)1947年6月12日生まれ。まもなく63歳。
1972年2月:本田技術研究所 入社(中途採用)
主な開発機種:TL125、TL250、RTL305、MT125、直4−CB750、900、
直6CBX(1000)、初期のV4-VF750、1000、1100、1000R等。
1987年3月:ホンダアクセス用品研究所
1996年6月:本田技研工業 部品事業本部 部品開発部 
2007年6月:本田技研工業 定年退職。

2010年5月3日月曜日

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黎明から、関トラ、全日本 開催へ

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1972年の関トラ・チャンピオンに輝いたQQSCの田中(英)サン。ベルスタッフの上着を着て観ているのは未だ白髪の無かった頃の松田。この時代のマシンは、本田もヤマハは川崎も鈴木も専用車は未だ発売しておりませんので、本田SL125かヤマハDT-1等の個人改造車が主でした。改造範囲も一部の者はACGのフライホイールマスを増やしておりましたが、大抵の者は保安部品を外して軽量化を計った車に後輪スプロケットとドライブスプロケットでレシオを下げ、アクロンのアルミリム/トライアル専用タイヤを履き空気圧を下げた位で参加していたとの記憶があります。(松田)

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日本のトライアル会の先達である万沢サン成田サンのクリーンライダースと田中兄弟のQQSCが主催していた「関東トライアル選手権」(略称カントラ)1972年の懐かしい写真ですね。場所は今は宮ケ瀬湖の湖底に沈んでいる早戸川河川敷です。(松田)
万沢安央氏がスタート前に進行方法等を説明。万沢、河野、田中兄弟、松田、石塚3兄弟を始め、成田省造らの関東の日本のトライアル界の主立ったライダーが集まっていた。

「60年代からのトライアル事情」
トライアルは自然の地形を利用した環境の中で、足つき等の減点を少なくし「クリーン」に走りきるかを競う競技です。
今では、お馴染みのトライアル、また、全日本選手権、さらには世界選手権まで日本で開催されるようになりましたが、60年代当時の日本のバイクメーカーからトライアル車は発売されていませんでした。参加者のバイクはノーマルオフロードバイクで、一部オンロードバイクでした。
当時は、時折MCFAJが主催していたトライアルイベントがありましたが、年間を通じてのトライアル大会は少なく、どの大会も出場人数は10名〜多くて20名の一握りです。
もっとトライアルを知ってもらいたいと言う想いで1967年頃「QQSCトライアル採点会」を開催することにしました。当日の参加ライダーは約20名ほど集まりました。
セクションを造り、模範走行をして基本となる走り方を教えました。午後からは競技形式で各自の採点をしました。走る難しさはありましたが楽しさを感じてくれたようでもありました。

更には1969年までには「QQSCトライアル大会」と名打ってシリーズ戦を開催していました。出場者は多いい時には50名位集まり大会規模も大きくなって来ました。参加者のバイクの改造レベルも高くなり、それにつれてセクションもレベルアップしてきました。
主な出場改造バイクはC2SS、DT−1、SL90、125、といったオフロードバイクがベース車として使われる様になりました。

「QQSCトライアル大会」の規模が大きくなるにしたがい、情熱を盛ったトライアルクラブの参加も増え、トライアルを更に盛んにする為に幅広くトライアル参加者を求めるイベントとして、1970年「関東トライアル大会」、通称「関トラ」を創設し「QQSC」と「CRTC」の交互共催で進める事になりました。
「関トラ」の開催場所は「CRTC」の熱意により新たに捜し出した、神奈川県宮が瀬の「早戸川」が会場となりました。
それまでの多くが河原で行われていた時代とは違い山の中の本格的なトライアル会場となりましたので、トライアル車に求められる性能もより高く、同様にライダーの技量が試される場ともなりました。
岩のステアケースは更に高く、山の斜面の上りは更に急に、上りの助走は更に短く、ターンもきつくなり、といった具合に大きく変わりました。
やがて「関トラ」が定着し参加者も増え、全国各地でもクラブ単位でトライアルが開催される様になっていました。
日本の4メーカーの動きも始まり関係者の視察や出場があり「トライアル車の開発」が視野に入ってきました。
そして、1973年1月に「ホンダTL125」が発表され発売となりトライアルが魅力ある競技となっていきます。
また、一方では「QQSC」「CRTC」「TRC」「RBTC」等の当時の主力クラブで、将来のトライアル運営を話し合い、「MFJ」も巻き込んで、ようやく73年11月に「第1回全日本トライアル選手権大会」が開催されるのです。
その後、MFJ公認「各地区選手権大会」も開催され、今日のトライアルの世界が定着する事となりました。
*この文章は、田中 義耿さんの「'60年代からのトライアル事情と参戦記」から抜粋させていただきました。



'73全日本TR。今は宮が瀬ダムの湖底に沈む早戸川渓谷に作られたセクションをトライするライダー。清流と紅葉がきれいだった事を思い出す。何人ものライダーが熊を見たという話もあり、熊注意の看板もあった。



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懐かしいマシン達。上からホンダ・バイアルス。唯一4スト125cc。ヤマハ・TY250。ライダーは大月信和さん・木村治男さん。名倉直さんが乗っていたスズキ・RL250。山本隆さん・加藤文博さんがカワサキKL250を走らせた。

*掲載中の画像がクリックすると拡大表示されます。

<文:田中 義耿 写真:鈴木 雅雄 写真解説:松田 稔>

2010年5月2日日曜日

J'sGallery 第一回インターナショナルスタジアムトライアル 〜 第2話


'82年にエディー・ルジャーンが、世界選手権で使用したホンダワークスRS360Tのエンジン。


「日本のトライアルを変えたルジャーンの走り」(第2話)
急遽多摩テックに会場を変更してからは、人工セクションをどのように造るべきか模索と葛藤が続く。日本には誰一人として世界チャンピオンがトライする人工セクション設計を手がけた人材はいなかった。ヨーロッパの事情を知っている服部聖輝は、プロトタイプのTLR200で参戦するため、セクションのアドバイスが出来ない立場となる。
試行錯誤しながら、国際B級ライダーの杉谷真選手の手を借りてなんとか完成させた。かくして、日本初のスタジアムトライアルは、海外からエディ・ルジャーンを迎え、日本の山本昌也などトップランカーが勢ぞろいした豪華メンバーで繰り広げられた。
当日の多摩テックは、快晴に恵まれたが真冬のために、第2セクションの水を使ったセクションに氷が張り、スタッフが氷を割った事態となった。日本人ライダーのほとんどは、勝手が違う人工セクションと目前に迫る大観衆という雰囲気に押され大量減点となってしまう。全日本チャンピオンの山本昌也でもなかなかクリーンを出すことが難しいセクション設定であった。
最後にトライするルジャーンは、第1セクションに入るとマシンをストップさせ、いきなりバックし始めた。このバックは、我々スタッフにも観客にも初めて見る不思議な挙動であった。このバックテクニックひとつで、会場から驚嘆の声があがった。
バックで助走距離を充分にとったルジャーンは、難関の第1セクションを難なくクリーン。その後も神業といえるテクニックによって、全セクションをオールクリーンで通過して見せた。そして、フローティングターンでクリアするセクションは、エアターンで余裕をもってクリア。観客の興奮は最高潮に達した。
世界と日本のレベルの違いをまざまざと見せつけられた一日だった。この日は、もうひとつ特筆すべきことがあった。ルジャーンの弟エリック・ルジャーンがMONTESA製のバイシクルトライアルで妙技を披露してくれたことだ。
自転車がバイクでも登れないセクションをクリアするテクニックを見た観客は、「トライアルで世界チャンピオンを狙うには、自転車から始めなければならないだろう」と感じた一日でもあった。この日から、日本人ライダー達は世界のレベルを目指し情熱を傾ける日々が続くのである。
<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄>

初めて見るバイシクルトライアルに、集まった観客はその動きに釘付けになっていた。乗っているのはBTRヨーロッパチャンプのテリー・ジラール選手。

ミショーのフローティングターン。霜の降りた丸太は滑りやすい。ミショーはエアーターンを避けてフローティングターンでクリーンした。

ドラム缶を越すルジャーン。スタジアムTRは、それまでの常識を覆すセクションばかりだった。これは3段に詰まれたドラム缶セクション

当時の日本のトップライダー達が集合した。左から、工藤靖幸、加藤文博、畑山和裕、服部聖輝、山本昌也、小谷重夫、伊藤敦志の面々。この頃はホンダとヤマハがワークス活動をしていた。

三台のバイクとライダー。世界のトップライダーのワザに、度肝を抜かれたと終了後に山本昌也は語っていた。

2010年5月1日土曜日

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第一回インターナショナルスタジアムトライアル 〜 第1話

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冬の多摩丘陵は寒かった。ルジャーンと下見をする服部は、プールの水深を測るもそこには分厚い氷がびっしり。

「日本のトライアルを変えたルジャーンの走り」
1983年1月15日、東京日野市の多摩テックで開催された「第一回 インターナショナルスタジアムトライアル」は、日本のトライアル史に新たな時代の到来を告げるとともに、世界チャンピオンエディ・ルジャーンのテクニックに衝撃を受けた、後世に語り継ぐべき出来事であった。
ベルギー出身のエディ・ルジャーンは、1982年にHondaの4ストロークマシンRS360Tで、Hondaにとって初めてのトライアル世界チャンピオンを獲得した若きライダーである。
その当時、Hondaのモーターレクリエーション推進本部では、トライアルの魅力を多くの人達に伝えるためには、より身近な場所で観戦していただくことが必要と考えていた。トライアルは、大自然の中で繰り広げられる競技のため、その魅力に触れるためには都市部から相当に離れた山間の会場まで行くことが求められていた。
時期を同じくして、Hondaのマシンで世界を転戦していたライダー服部聖輝からは、ヨーロッパのトライアル最新事情の報告が寄せられていた。モトクロスと同じように、都市部のスタジアムなどの会場に人工的なセクションを造り、観客は指定された席でほとんど全部を見ることが出来るという画期的なものであった。
日本では、後楽園球場でスタジアムモトクロス(スーパークロス)が開催され大きな人気を博した。
Hondaの社内では、ルジャーンのチャンピオン獲得やバイク競技の都市部開催の流れなどから、ルジャーンを招聘しスタジアムトライアルを日本で開催しようという気運が高まった。
企画の当初は、東京モーターショーの開催地として有名な晴海の国際見本市会場のドーム施設の了解が得られ、ルジャーンがドームの屋根を走っている合成写真のポスターも制作進行していた。
しかしながら、様々な事情から会場の変更が迫られる事になった。そこで白羽の矢が当てられたのは多摩テックであった。
(第2話に続く)
<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄>

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世界レベルのテクニックを、それこそ移動する事なく見られると、早朝からトライアルファンが集まった。

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これまで雑誌でしか見た事がなかったルジャーンのエアーターン。この日集まった観客は、トライアル界衝撃の目撃者になった。

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今や当たり前になっているが、当時バイクと同じようなライディングをするバイシクルトライアルも、この日が日本初お披露目になった。

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2サイクル全盛の中、4サイクル360ccのRS360Tを操り、圧倒的な強さを誇った世界チャンプのエディ・ルジャーン(ベルギー)。

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当時ストップ・ザ・ルジャーンの筆頭だった320ccのSWMに乗るティェリー・ミショー(仏)。後にファンティクに移りチャンプになった。