2010年4月1日木曜日

J'sGalley
シルクロードでシルクロードを走る 〜 第1話

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当時、'60年代に発売されたCL72の再来といわれたシルクロード。250cc単気筒のエンジンは、CL72より低中速に
粘りがあり悪路での走破性は優れていた。  

「シルクロードでシルクロードを走る」〜どこまで追えるか、夢〜(第1話)
1981年3月、250cc単気筒エンジンを搭載した「シルクロード」が発売された。トレッキング・バイクという新たなカテゴリーを築こうという、意欲的な製品として誕生した。
このシルクロードを大々的にPRするための企画が本田技研工業(以下、Honda)で進められていた。通称「シルクロード調査隊」である。この調査隊の目的は大きく二つ。
シルクロードの宣伝・広報活動と、日本のバイクファンに中国のシルクロードをバイクで走る「夢のツーリング」企画の提供であった。当時は、NHKテレビでシルクロードのドキュメンタリー番組が大ヒットになった直後であり、シルクロードという言葉には、日本国民の大多数が大きなロマンを感じていた頃である。
「シルクロードでシルクロード」を走る、という単純な企画であるが、文化の違う中国と協同ですすめていくことは、大変多くの国難が待ち受けていた。
この企画のために編成されたのは、まずはHondaでは、販売促進部、広報部、本田技術研究所、モーターレクリエーション推進本部から私、高山を含めた5名。
報道関係者として同行していただいたのは、二輪専門誌代表としてライダースクラブから万沢康夫氏、新聞媒体、一般誌から3名がライダーの役割を担っていただいた。カメラマンは、鈴木雅雄氏とさらに1名。そして、記録映像スタッフとして、TBS映画社から数名が参加した。
日本側スタッフは、総勢約15名の編成だが、迎える中国側は、ライダー3名に通訳や政府関係者などを含めると、時には20名にもなるほどの大部隊であった。
当時の中国は、外国人が旅行をすること自体異常な事態であり、我々のように「文明の利器」を携えての旅行は前代未聞といってよい出来事であった。           (第2話に続く)

<文:本田技研工業株式会社 広報部 高山 正之 写真:鈴木 雅雄>

ここは、北京の北西約80キロにある八達嶺で、明の時代に改修されたといわれる。
これが約9千キロ西の甘粛省の嘉峪関まで続いている。ユネスコの世界遺産だ。 
バイクでのスタート地点になった酒泉中心部。特別に許可をもらい楼閣の中を抜けていざ敦煌をめざした。日本製のきれいなバイクやウエアーはどこにいっても注目を集めた。

手前はゴビ炭と呼ばれる地質のゴビ砂漠で、砂よりも目が粗く締まっているので走り易い。奥はサラサラした砂のタカラマカン砂漠に続いている。地面の色は含有する鉱物により何色にも染まっている。舗装路を外れるとこのような砂漠が延々と遥か彼方まで続いている。

鈴木 雅雄=二輪四輪の業界では、ジョッパ(JOPPA)という愛称の方が通りが良いフリーランスフォトグラファー。
1947年東京に生まれ、日本大学芸術学部写真学科卒。'70年代の前半からモータースポーツの世界に入り、ロードレース、モトクロスそしてトライアルなどを撮り続ける。
日本レース写真家協会(J.R.P.A.)の会長を18年努め、昨年より副会長。現在、鈴鹿サーキットでレースフォトグラファー体験講座の講師を15年努め、出光イーハトーブトライアルやロシアンラリーなどにオフィシャルカメラとして、第一回目から参加している。
また、二輪業界の有志が30年以上、企画運営している親睦を兼ねた「バイクごっこ」のジャーナリスト・モーターサイクル・ミーティング(J.M.M.)代表。

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