2010年7月1日木曜日

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モトクロスの魅力にとりつかれて 〜 第1話

開幕戦谷田部のスタート風景。1973年の当時はスターティングマシンはなく日章旗の合図でスタートする。エンジンをかけてギャーは1速に入れクラッチを切り合図を待つ、スタート係のタイミングに合わせるのに苦労した
谷田部でのレースで、ヤマハの岩尾選手と競っているところ。ライディングスタイルの違いが分かる。何故かこの時のゼッケン3のビブを今でも持っている。

モトクロスの魅力にとりつかれて(第1話)/増田 耕二
■モトクロスとの出合い
1970年代の初め、MFJモトクロス全日本選手権の開幕戦といえば谷田部でした。
春とは言え寒さが残る3月、日本自動車研究所(JARI)内の広大な空き地でレースシーズンが始まるのが恒例でした。
早く走り出してしまいたい衝動に駆られながら日章旗の動きをじっと見つめていました。
私が初めてモトクロスレースを観戦したのは1965年16才、高校生の時でした。第3回モトクロスGPが四国・香川県の五色台で開催されると聞き、ホンダCS90で岡山県の宇野からフェリーで四国高松に渡り五色台の会場までたどり着きました。会場に漂うヒマシ油の燃焼した甘い排気ガスのにおい、2ストロークの甲高い排気音、急坂に悪戦苦闘している選手の姿に度肝を抜かれました。これがモトクロスレースなのか、モトクロスGPの会場で目にしたこの時の光景は今でも忘れません。
これまでモーターサイクリストなどのバイク誌の写真でしか見たことのないワークスマシン、有名なファクトリーライダーの走り、ワークスメカニックの仕事ぶり、目の前で展開している会場の独特なレースの雰囲気は、田舎の高校生の私には見るもの、聞こえるもの全て驚きでした。中でも、スズキワークスライダーの小島松久選手、久保和夫選手がヨーロッパのモトクロスに出場して来た事を告げる場内アナウンスは更なる強いインパクトがありました。
『自分は街の中を粋がって乗り回しているだけだ、レースで速くなれば世界に行けるんだ。オートバイに乗って外国へ、ヨーロッパに行けるなんてすごい』自分も速くなって海外に行ってみたいという思いが頭の中に生まれました。当時は海外へ行くということは直ぐには考えられない時代で、それでも外国でレースという『夢』を抱きました。
岡山に帰るとそれまで街の中を乗り回していたホンダCS90のハンドルとタイヤを交換し、バイク仲間と岡山市を流れる旭川の河川敷でモトクロスに熱を入れました。その後地元岡山や倉敷の河川敷でも全日本選手権レースが開催され参加を果たしました。高校を卒業しても『いつかはワークスライダーになりたい』と心に秘めながらモトクロスを続けていました。

■ 岡山から浜松へ
1970年突然、幸運な出来事が巡ってきました。スズキはモトクロス世界選手権のチャンピオンを獲得すると創立50周年を記念して全国各地にスズキオートランドというモトクロス場を開設し、オフロードのイベントを企画して若者にオフロードの楽しさを提供しました。
この出来事は私が夢に一歩近づくチャンスを与えてくれたのです。それまでモトクロス活動を支援してくれた人やバイク仲間の心温まるバックアップにより、3月にスズキ岡山という代理店の現地採用特別枠でスズキに中途入社することが出来ました。高校では留年も覚悟したできの悪い生徒であった私がスズキという大きな会社に入れたことを両親やお世話になったアルバイト先のバイク店の主人に喜んでもらいました。
特にバイク店の主人は今度は店をやめることで迷惑をかけるにもかかわらず快く送り出してくれました。私の仕事は代理店で二輪の修理サービス業務を行いながらモトクロスの普及も行うことでした。もちろん全日本モトクロスレースにも参加していました。五色台のモトクロスGPから6年目にして『夢』の扉の前に到達したのでした。
そして何と、その年の9月に代理店での仕事やレース活動が認められ、本社の技術部レース部門への異動辞令が届きました。レース部門の人がレースの様子を観察し、テストライダーとして可能性を持っていると判断して浜松のスズキ本社に呼んだのです。
とうとう『夢』にまで見たワークスマシン開発の中枢に到達するという信じられないことが起きたのです。ワークス契約ライダーでないにしろスズキ本社のモトクロスワークスマシン開発のメンバーになれたのです。私はその事によって、目標を高く持つ、チャンスを見逃さない、努力を怠ってはいけない、全てに感謝することを忘れてはならないことを学びました。
シーズンが終了すると技術開発も活発になり、静岡県湖西市の白須賀モトクロステストコースに出かける頻度が多くなりました。開発部門の先輩メカニック、技術者にしごかれテストコース脇にある小石の位置を知り尽くすほどコースの周回を重ねました。
翌年のマシン仕様が決定すると世界チャンピオンのJ.ロベール、R.デコスター、G.ライエーやS.ゲボースらが来日して確認テストを行いました。もちろん、このテストに参加させてもらい、彼らの一つ一つの挙動を観察し彼らを真似ることから始め速くなりたい一心でテストに励みました。チャンピオンのR.デコスターからテストに邪魔になるという苦情までももらいました。
■恒例の開幕戦、谷田部
1972年の開幕戦谷田部は、ホンダが初めてモトクロスにワークス参戦し、国内4メーカーによる激突となりました。特にホンダのワークスマシンの注目度が高く、これまでにない緊迫した雰囲気でした。スズキから吉村太一選手、上野広一選手がホンダに移籍したため、スズキは私を含めた従業員テストライダーにもワークスメカニックを付けるというワークスライダー待遇の体制を敷いて臨んだ開幕戦となりました。
私にとって16歳の『夢』の扉が開いた時でもありました。レースはヤマハが優勢で鈴木兄弟の兄の秀明選手が優勝、弟の都良夫選手が2位に入りました。残念ながら私は結果を残せませんでした。この年の中盤、スズキはベルギーからガストン・ライエーという若いモトクロスライダーを招聘し、全日本モトクロスへ参加させました。日本人ライダーを寄せ付けないガストン・ライエーは、ヨーロッパの高い走行レベルを見せつけ何度も優勝を勝ち取ったのでした。
翌1973年は、サスペンション戦争が本格的に始まったシーズンとなりました。ヤマハはこれまでのツインリヤーショックから、モノサスという新しいシステムをワークスマシンに装備し開幕戦の谷田部に持ち込みました。
その年、私は同僚の池田君と二人でシーズンオフの1月初めから3月の開幕戦直前まで、ヨーロッパのモトクロスを学ぶためベルギーのガストン・ライエーのところに出かけておりました。雨の日が続くベルギーで毎日練習に明け暮れ、日曜日はインターナショナルのレースに参加しR.デコスターやH.ミッコラなど世界のトップライダーとも競いました。これで大きな自信を得ることができました。
スズキのマシンは前年度型を熟成させたマシンで開幕戦に臨みました。私は直前までベルギーに行っていたため、レース本番車のセッティングはほとんど出来ませんでした。 しかし、ヨーロッパで走って来たという自信を持って開幕戦谷田部入りしたのです。
レースがスタートすると何かがおかしいと感じました。ヤマハのライダーは私以上に自信有る走りであり、どんどん離れて行くのでした。私はジャンプとギャップの中、ヤマハ勢に歯が立たず全く良いところなしでした。このモノショックはオフシーズンの間、密かにヤマハが研究開発していたのでした。惨敗した我々スズキは、レース後ヤマハのモノサスに対抗すべきリヤーサス構造やサスペンション自体の研究開発を急いでやらなければなりませんでした。
谷田部のコースは、日本自動車研究所内の平坦地に特設的にレイアウトされ、アップダウンがなくジャンプとコーナーの連続でした。ヤマハのモノサスが有利に展開できたコースでもありました。谷田部名物の第1コーナーは、スタートライン幅のまま広く、5速全開で進入し逆ハン走行で曲がって行く豪快に走るライダーを見ることが出来、来場した多くの観客に喜ばれました。比較的スピードの出るコースで私も好きでした。しかし、好きなコースとは言っても、結果はいつも裏腹で、何故か開幕戦は気負い過ぎて、自分が思ったようには走れず谷田部は成績を残していない苦い思い出ばかりのレース場でした。


1973年開幕戦谷田部でのセニア125ccクラスのスタートシーン。私#3は第1コーナーはイン側が有利と考え、一番イン側に位置取りした。好スタートを切ったのはヤマハの鈴木都良夫選手。
1973年当時の私。公式練習からワークスライダーは見る人達にとって憧れでなければならない。走りの凄さや、速さ、そしてスタイルに目立たなければならない。
■ スズキの50V作戦
1970年スズキは創立50周年を記念してモトクロスの普及に力を入れました。50V作戦と呼ばれその普及活動により、全国各地の山間部にオートランドが開設され、そこで開催されるイベントの運営は各県にある代理店、販社の方々が行っていました。スズキ従業員でワークスライダーとなった私は、各地のオートランドに出かけイベントの招待選手としてモトクロスの好きな若者達に混じって走りました。全日本選手権レースの日程終了後には、白須賀テストコースで全国大会を開催し、スズキの世界チャンピオンを参加させ、有名芸能人の来場もあり全国各地から観客が来場しました。その数は数万人規模でモトクロスGPに匹敵する程でした。オフロード好きの60才・50才前後の方には、スズキオートランドや全国大会の良き思い出が有るかと思います。
スズキはソフト面でも全国規模のイベントや、毎年デザインを変えたモトクロスジャージ、グッズを披露するなどオフロードを大いに盛り上げていました。目立ちたがりの私はこれまでのダーク系の皮製モトクロスパンツに満足せず、赤色のモトクロスパンツで走れば注目度ナンバーワンだと考え、浜松の櫛谷商店に頼み込んで派手な赤色モトクロスパンツを作ってもらったりもしました。レースの時は、スズキの黄色と青のモトクロスジャージ、ブルーのベルヘルメット、あこがれの世界チャンピオンのJ.ロベールが履いていたSIDIブーツで決めたものでした。
1973年の後半、第1次オイルショックが起こり日本中が大騒ぎになりました。スーパーではトイレットペーパーや洗剤が買い占められて日曜品がなくなり、ガソリンスタンドも長い車列に並ばなくてはならない大変な状況でした。だが、こんな大騒ぎの中でもモトクロスマシンの技術開発は止まりませんでした。
ただ、翌年のレース環境は厳しくなり、従業員ライダーのレース参戦を制限する計画が持ち上がったのです。当然、私を含めて従業員ライダーは大きな不満を漏らすようになり、しかし、この騒動が発端で当時スズキの専務だった鈴木修さんにお会いすることができました。上司の伊藤光夫さん、渡辺明共々役員室に呼ばれ、このごたごたの説明をする羽目になったのです。
従業員ライダーも一生懸命に技術開発やテストを行っていること、仕事の目標である『レースに出てスズキの技術を示したい』との想いを切実に訴えました。その結果、専務からは『よし分かった、レースは出るからには勝たなければならない』と厳しい注文を出されレースへの続行が認められたのです。
1974年、サスペンションシステムはレイダウン方式にされ、ヤマハに対抗できるまで煮詰められたのでした。鈴木専務との約束は、モトクロスGPの125ccクラスで優勝したことで果たすことができました。しかしながら、その他の大会では自ら転倒したり、マシントラブルで結果を残せずシリーズとしては不本意に終わってしまいました。
このシーズン、ヤマハは125で水冷エンジンを投入しサスペンションからエンジンへの技術開発へ移行する取り組を見せました。スズキも早急に新エンジンの開発に取りかかる必要があったものの、サスペンションの改良を優先させ、より安定して走る事が出来るマシンの追求を行ったのです。
私は、シリーズランキングは8位だったにもかかわらずスズキの温情的な考えで、シーズン終了後、前年に引き続きアメリカのインターナショナルレース500ccクラスに参戦できました。そこで、ヨーロッパのトップライダー、アメリカ人ライダーと競うことが出来たことで、大きな自信を持ち帰ることが出来ました。
1975年は、前後のサスペンション開発も進歩しさらに速く走れるマシンが仕上がりました。そして、アメリカのレースで身につけた自信を持って臨んだこの年の鈴鹿サーキットで行われたモトクロスGPで、125ccクラスと250ccクラスでダブル優勝したのです。250ccクラスで3勝、2位2回、3位1回を上げてシリーズチャンピオンも獲得しました。 

<文:増田 耕二 写真:鈴木 雅雄>

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